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3月15日(土)江戸時代の東海道と明治時代以降の東海道 [社会分析]

3月15日(土)  晴れ  東京  12.0度  湿度27%(15時)
11時、起床。
「日記」を書く。
あることをきっかけに知った関西鉄道大仏線のことが京都新聞で記事になっていたので、少し調べて文章にまとめてブログにアップ(別掲)。
そこには書かなかったことだが、私たち東国の人間は京都に行くとき、ほとんどの場合、東海道新幹線に乗っていく。
新幹線ができる前までは東海道本線だった。
つまり、名古屋から北西に向かい、関ヶ原の隘路を通って、伊吹山の南麓に出て、米原から湖東平野を南下し、大津から逢坂山を抜けて山科に入り、東山トンネルをくぐって京都盆地に至る。
しかし、このルートはまったく近代以降、官営鉄道の東海道線が設定されてからの道筋だ。
年代で言えば1880年代以降のことだ。
江戸時代の東海道は、そもそも名古屋の城下を通らず、宮の宿(=熱田宿、現:名古屋市熱田区)から「海上七里の渡」で桑名に上陸し、 四日市、石薬師(現:三重県鈴鹿市)、庄野、亀山(三重県亀山市)と進んで、関宿で伊勢路を分岐、坂下から鈴鹿峠を越え、土山(滋賀県甲賀市)、水口、石部(滋賀県湖南市)と南近江を通過して、草津で中山道と合流する。
ほぼJR関西本線(名古屋~柘植)と草津線(柘植~草津)が江戸時代の東海道のルートに相当する。
逆に現在の東海道線の米原~草津間は江戸時代の東海道に、名古屋~米原間は美濃路に相当する。
つまり、江戸時代の東海道、京と江戸を往復した人たちが運んだ文化は、北伊勢~伊賀~南近江を通過していた。
これらの地域は、明治時代以降、鉄道幹線のルートから外れたことで、経済的に没落していくが、本来、豊かな文化性を持った土地だった。
だからこそ、明治時代の鉄道創生期に、名古屋~奈良~大阪を鉄道で結び、官鉄の名古屋~京都~大阪のルートに対抗しようという気概を持ち、ある程度、それを達成する経済力があったのだ。
そのことを忘れてはならないと思う。
この二つのルートの対立はかなり根深いものがあり、近い将来、リニア新幹線の名古屋~大阪間のルート設定をめぐって、名古屋~京都~大阪案と名古屋~奈良~大阪案が対立するとだろう。
私の考えは、そのどちらでもなく、江戸時代の東海道と同じルートで、京都終点でいいと思っているが…。

夕食は、作り置きの牛すじの煮込みを卵とじにする。
140315-1.JPG
それと、きのこの炒め煮。
140315-2.JPG

今日はなんだか気力が充実せず、だらだら過ごしてしまった。
お風呂に入って温まる。
就寝、2時半。
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