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6月4日(水)大皇太后宮子の崩御記事 [お仕事(古代史)]

6月4日(水)   晴れ   東京  29.4度  湿度58%(15時)
8時、起床。
朝食は、グレープフルーツデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
10時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)7~9月条の講読。
藤原不比等の娘、文武天皇の夫人、聖武天皇の母である藤原宮子の崩御記事など。
宮子の処遇については、聖武天皇の即位後の神亀元年(724)に称号問題が起こる。
聖武は当初「大夫人」と称することを命じたが、太政官筆頭の左大臣長屋王から、律令(公式令)では「皇太夫人」となっていることを指摘され、結局、先勅を撤回して、文(文字言語)には「皇太夫人」、語(音声言語)には「大御祖(おおみおや)」と呼ぶことを定めた。
「皇太夫人」の宮子には中宮職が付せられたが、位階(正一位)を持っている点で身分はあくまでも臣下であった。
藤原氏出身で皇族ではない宮子は「皇太后」にはなれなかったのだ。
その状態は、聖武天皇が譲位するまで変わらなかった。

問題は、天平勝宝元年4月に孝謙天皇が即位した時点で、祖母である宮子をどのように処遇したかである。
今までの延長からすると、「皇太夫人」から「大皇太夫人」になるはずだ。
ところが『続日本紀』天平勝宝6年7月19日の宮子の死亡記事は「大皇太后、中宮に崩ず」になっている。
このことから、孝謙天皇の即位後に宮子は、「皇太夫人」から「大皇太后」になったと考えられる。
「大皇太后」となれば、天皇・上皇・皇后・皇太后と同じで、臣下の身分ではない。

なぜ、聖武天皇にできなかったことを孝謙天皇はできたのだろう。
それは、同じ藤原氏出身の安宿媛が、皇后から皇太后になっていたからだ、
その先例があったからこそ、宮子を大皇太后にできたのだと思う。
あるいは、宮子を大皇太后に処遇したのは孫の孝謙天皇ではなく、妹の光明皇太后の意思だったかもしれない。
藤原氏出身の「后」としては、一般に聖武天皇の皇后藤原光明子が最初で、次が桓武天皇の皇后藤原乙牟漏とされるが、厳密に言えば、その間に藤原宮子が入ることになる。

12時、終了。

昼食は、久しぶりに回転寿司。
学芸大学駅に移動して、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理と、少しだけ休息。
(続く)

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