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7月16日(水)今日の古代史(平安京・施薬院木簡) [お仕事(古代史)]

7月16日(水)  晴れ   東京   32.3度  湿度66%(15時)
8時20分、起床。
朝食は、ショコラクリームホーンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
9時55分、家を出る。
今日も真夏の日差しで、暑くなりそう。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
久しぶりに考古学&木簡の話題。
平安京・施薬院木簡について。
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施薬院・悲田院、初の木簡 窮民救済の活動記す
平安京で路頭に迷った病人や孤児らの救済施設「施薬(せやく)院」「悲田(ひでん)院」の名が記された平安前期(9世紀前半)の木簡が、文献上で施設があったとされる付近の京都市南区の平安京跡(左京九条三坊十町)から見つかった。平安時代の両施設に関して記述された木簡が出土するのは初めて。諸国から集められた薬などの荷札の他、「死亡報告書」とも言える木簡もあり、平安時代の困窮した市民の救済活動を表す史料だ。京都市埋蔵文化財研究所が2日、発表した。【藤田文亮】

木簡が出土した場所は、JR京都駅の南約300メートル。鎌倉時代の「九条家文書」によると、施薬院関連施設とみられる「御倉」跡地で、約120メートル南西に施薬院があったとされる。庭園の池の一部とみられる遺構が確認され、池の堆積(たいせき)物から木簡が土器とともに見つかった。

出土した平安前期の木簡は17点で、このうち4点が荷札とみられる。関東地方から薬の原料のサンショウが当時の1斗(現在の約7・2リットル)届けられたことを示す「武蔵国施薬院蜀椒壹斗」と書かれたものの他、6種類の生薬を調合した丸薬「六物□□丸」(「□」は判読不能)、食料や財源としての米が香川県から運ばれたことを示す「讃支白米五斗宮道□□」などの記述が確認された。

また、815(弘仁6)年3月10日の日付のある木簡には、2月4日に施薬院に来た「大伴□□」という37歳とみられる男性と「土師浄女」という56歳の女性が死亡したことが記されていた。木簡の上部には穴が開けられており、とじて保管する「死亡報告書」の意味合いを持つ木簡だったことがうかがえる。悲田院が上部組織の施薬院に塩を求めたとみられる木簡もあった。
『毎日新聞(大阪)』 2014年07月03日 朝刊
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施薬院(「せやくいん」、中世の読みは「せ」を読まず「やくいん」)は、奈良時代に設置された庶民救済施設。
天平2年(730年)、光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を無料で貧民に施し、時には東大寺正倉院所蔵の人参や桂心など高価な薬草も供された。
平安京への遷都後、施薬院は五条室町近くに移されたらしく(典拠要確認)、嵯峨天皇の弘仁2年(811)2月5日には、山城国乙訓郡に施薬院の薬園1町が設けられた(『日本後紀』)。
天長2年(825)11月2日には、別当、院使、判官、主典、医師の各1名を置く職制が定められた(『類聚国史』巻107施薬院)。
『類聚三代格』所収の寛平8年(896)閏正月17日付太政官符には、左右の看督長と近衛が10日ごとに施薬院と東西悲田院の病人と孤子の人数の増減と安否を巡検することを命じている。
施薬院には病人を収容し、預と雑使が治療にあたり、東西悲田院は孤子を収容して預・雑使、さらに乳母・養母が視養し、院司が預以下を指揮監督していたことが記されている。
しかし、平安時代の施薬院の実態は史料が乏しく、実態はわかっていなかった。

今回の施薬院関係の木簡が発見されたのは、京都駅の真南約300mの地点で、平安京の条坊では左京九条三坊十町になる。
左京九条四坊は賀茂川の流路が入っていたので、実質的に平安京の南東隅に近い場所。
鎌倉時代の「九条家文書」によると、施薬院の「御倉」があった場所で、池の堆積土中から木簡17点が発見された。
平安京条坊図 (2).jpg
↑ 平安京条坊図。赤が左京九条三坊十町。
施薬院木簡4.jpg
↑ 発掘区の場所。
施薬院木簡5 .jpg
↑ 発掘区の詳細図。
主な木簡は3点。
施薬院木簡1.jpg
↑ 完形の付札木簡。
「武蔵国施薬院蜀椒壹斗」と記され、武蔵国から施薬院に運ばれた蜀椒(山椒)壹斗に付けられていた荷札。
施薬院木簡2.jpg
↑ 帳簿木簡。表には月4日に施薬院に来た「大伴(某)」という37歳?の男性と「土師浄女」という56歳の女性が死亡したことが記され、裏には「薬院」に仕えて「田作」をしていた「客作児」4人が死亡したことが記され、弘仁6年(815)3月日の日付がある。
木簡には、綴じ穴があるので紐で連ねて、死亡人帳簿として使ったらしい。
施薬院木簡3.jpg
「悲田院」「解申」とある。「解」は下部の官司が上部の官司に申し上げる上申文書の書式なので、悲田院が施薬院の被官であることがわかる。
塩の請求をした木簡と思われる。

これらの木簡から、平安時代初期の平安京で病人や孤児を収容して療養させる福祉施設が一定の機能を持っていたことが判る。
しかし、京内の病人や孤児をすべて収容するだけの規模だったとは思えない。
どれほどの実質性をもっていたのか、もう少し史料(木簡)が出てきて欲しい。

残りの時間、『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)12月~7歳正月条の講読。
12時、終了。
(続く)



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