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2月7日(火)世界遺産・富岡製糸場を見学 [旅]

2月7日(火)

6時半、起床(「東横イン前橋駅前」)。
早起きできたし、お天気も良いので(風は強いが)、世界遺産・富岡製糸場へ行くことにする。
8時20分、ホテルのロビーで朝食。
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炊き込みご飯はおいしいが、パンはよろしくない。
8時45分、チェックアウト。

前橋駅8時50分発の電車で高崎へ。
9時08分高崎駅着。
コインロッカーに荷物を入れて、階下の上信電鉄の乗り場へ。
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9時25発下仁田行きに乗車。
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上州富岡駅までは13駅、約40分。
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佐野のわたし駅を出てすぐに利根川を渡る。
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ここが謡曲「鉢木」(旅の僧姿の前執権北条時頼を没落した御家人が愛蔵の盆栽を薪にしてもてなす話)に出てくる「佐野」だという解説があった。
一般的には、下野国佐野荘(栃木県佐野市)ということになっているのだが・・・。

電車は鏑川(かぶらがわ)の広い谷を西へ西へと進む。
車内はロングシートに乗客が4割ほど。
吉井駅(高崎市吉井町)でかなり降りる。
吉井と言えば、古代上野三碑の多胡碑があるところ。
見学に行ったのはもう30年以上前。

進行方向の遠くに雪をかぶった真っ白な山が見える。
浅間山だろう(撮影できず)。

上州福島駅(甘楽町)を通過。
小幡藩織田氏2万石の城下町。
織田信長の次男信雄の末裔。
「天下布武」の英雄の血筋はこんな所に細々と受け継がれていた。

10時05分、上州富岡駅に到着。
観光客らしいのは、女子大生らしいの3人組と私だけ。
観光シーズンではない、そもそも電車でくる人は少ないのだろう。
駅前、きれいに整備されているが閑散。
「一等女工お富ちゃん」(↓)も暇そうだ。
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バスとかタクシーとかもいないので、徒歩で富岡製糸場に向かう。

町は人気(ひとけ)が少ない。
富岡市は人口5万3000人、この地方の中核都市のはずなのだが・・・。
路地に「銀座通り」とあったので、入ってみる。
自動車がぎりぎり通れるほどの狭い道の商店街。
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かなり古い建物もある。
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↑ 軽食堂「富士屋」(昭和30年=1955創業)。
面取りしたコーナーに入口があり、2階にはバルコニー。
かっては女工さんたちで賑わったらしい。

徒歩15分ほどで、世界遺産・富岡製糸場の正門に到着。
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入場料は1000円。
団体観光客がけっこういる。

正門は東側なので、入ってすぐの長大な南北棟が「東繭倉庫」(長さ104.4m、幅12.3m)。
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明治5年(1872)の建設で、木材の枠組みの間にレンガを積みあげた木骨レンガ造。
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明治初期のレンガ造の洋風建築としては最大規模であり、数少ない残存例。
レンガは、長辺と短辺を交互に並べる「フランス積」という様式。
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美しいが、構造的に地震に弱い。
群馬県のこの地域は地震災害がほとんどないのも、建物にとっては幸いした。
(南関東にあったら、地震で倒壊していたと思う)
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↑ アーチ形通路。
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↑ キーストーンの銘板
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↑ 基礎構造。これだけ長大な建物で、150年経っても、不等沈下がまったくない。
明治の職人の技術の高さがわかる。

「東繭倉庫」の1階は資料館になっているので見学。
富岡製糸場を建設した、お雇い外国人ポール・ブリュナ(Paul Brunat、1840~1908年)は、フランス人。
フランスにおける絹織物取引の中心地であるリヨンの生糸問屋に務め、慶応2年(1866)に来日し、横浜で生糸検査人をしていた。
明治3年(1870)、生糸の輸出振興のために近代的な器械製糸技術の導入を急ぐ明治新政府から官営模範製糸場の建設を委託される。
ブリュナは明治3年10月7日、年俸9000円という破格の高給で明治政府と5年契約(1871~75)を結び、富岡を建設地とすることを最終決定、製糸場の設計を横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼すると、明治4年1月22日、いったんフランスに帰国。
フランスで製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらにエミリー・アレクサンドリーヌ(18歳)と結婚。
明治4年11月8日、妻と雇員を伴い横浜港に到着すると、富岡の建設を本格化し、明治5年(1872)10月4日、操業開始に漕ぎつける。
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↑ ブリュナと雇員たち。
後列右から2人目の白い服の男性がブリュナ。
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↑ 門を入った先の建物が東繭倉庫。左手の長い建物が操糸場。

ブリュナは、契約切れにともない、明治9年2月15日、妻と日本で生まれた2人の娘と離日するが、日本の近代的製糸産業の基礎を作った人であり、もっと評価されてよい人物だと思う。

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↑ 東繭倉庫の西側(中庭側)、2階に通路がある。
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↑ 木造部分はかなり痛んでいる。
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↑ 東繭倉庫2階内部。
この巨大な空間に周囲の養蚕地帯から膨大な量の繭が運びこまれ貯蓄されていた。
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中央に柱があるが、屋根はトラス構造で支えている。
通風で繭を乾燥させるために、通常の倉庫と異なり窓が多くかつ大きい。

中庭を過って「西繭倉庫」へ。
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ここは現在、大規模修理工事中。
別料金200円を払って見学。
屋根瓦を下ろしての解体修理なので、壁はレンガで洋風なのに、屋根は瓦葺でまったくの日本伝統工法であることがよくわかった(写真はNG)。

続いて、製糸場の動力の根元である蒸気機関(復元)。
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横形単気筒式の比較的単純な蒸気機関だが、それでも当時の日本の技術ではまだ無理で、ブリュナがフランスから輸入し「ブリュナエンジン」と呼ばれた。
燃料は、高崎・吉井で採掘した石炭だった。

次に「鉄水槽」。
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明治8年(1875)建造の直径15m、深さ2.4m、貯水量約400トンの巨大水槽。
製糸場で大量に使用する水をまかなった。
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当時の最新技術であるリベット接合が用いられている。
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でも、土台は、地元の石材を積んだ在来工法。
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で、やっと「繰糸場」へ。
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↑ 入口。
ここも壁はレンガ積の洋風だが、屋根は瓦葺の和風という和洋折衷の建築。
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↑ 側面。
長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m、写っていないが屋根の上には蒸気抜きの腰屋根がある。
壁面には大きな窓を2段に設けている。

屋内に入ると、自然光の取り入れを考慮した窓の設計であるとこがよくわかる。
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創業当時は、まだ電灯がなかったから、製糸という細かな作業には十分な太陽光が必要だった。
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↑ お天気さえ良ければ、かなり明るいことがわかる。
大きな建物であるにもかかわらず、内部には柱はなく、屋根はトラス構造で支えられている。
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製糸場の内部には、現在、1966年製日産HR型自動整糸機がずらりと並んでいる。
片倉工業株式会社が1987年の操業停止まで使っていた機械だ。
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現在でも同型の機械を操業している「碓氷製糸農業協同組合」(群馬県安中市)のビデオがあり、実に巧妙な自動整糸機の技術がわかって興味深い。

とはいえ、そんなことに興味をもつ観光客がたくさんいるとは思えず・・・。
将来的には、この現代の機械類を少なくとも部分的に撤去して、創業時の製糸機械を復元・設置べきなのではないだろうか?

創業時の「繰糸場」の様子は、幸い錦絵に描かれている。
フランス式繰糸機が300釜据えられていた。
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↑ 一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」(1872年)
拡大すると整糸作業の状況がわかる。
一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (2).jpg一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (3).jpg

さて、蚕の繭から生糸を作る製糸作業を理解するためには、繭の構造を知る必要がある。
私のように養蚕地帯で子供時代を過ごした者には当たり前でも、そうでない多くの人には説明が必要だろう。

蚕蛾の幼虫が十分に成長して終齢幼虫になると、口から細い糸を吐きだし繭を作り始める。
全身を包む繭ができると、その中で蛹(さなぎ)になる。
つまり、繭は細くてとても長い1本の糸からできている。
逆に考えれば、繭を上手に解していけば1本の細くて長い糸(1300~1500mほど)になるということだ。
そうした繭の出来方からして、繭の外側のどこかに糸の先端があるはずで、それを緒口という。
製糸作業は、まず繭を煮て、繭の糸を接着しているセシリンを落とし、繭を軟らかく解しやすくし、緒口を探して、そこから糸を繰り出していくことになる。
緒口を探すのは、長らく人の手技に頼らざるを得なかった。

「東繭倉庫」で、復元したフランス式繰糸機を使った実演が行われていた。
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↑ 繭から繰り出された糸はリングを通って背後の小枠に巻きとられているのだが、糸が細すぎて写っていない。
https://www.youtube.com/watch?v=q2wzheAyN1Q
説明によると、繭5個を1組にして、そこから繰り出される5本の糸を撚(よ)って1本の生糸にして、小枠に巻きとる。
1人の女工は2組(繭10個・糸2本)を管理した。
糸を繰り出された繭は次第に薄くなり蛹が透けて見えるようになる。
そうなると、もう糸の終わりが近いので、女工は透けた繭を排除して新しい繭を加え、緒口を見つけて糸を引き出し、他の糸と合わせる。
この作業は素早く行わないと、糸に細い部分ができてしまう。
そうならないようにするのが女工の腕らしい。
繭を煮ている湯は60~70度ほどなので、火傷をしないためにも素早く行う必要がある。
ちなみに、繭を煮るための加熱は蒸気(スチーム)で行う仕組みになっていた。

話は前後するが、繰糸場で上質の生糸を生産するためには、繭の選別が重要だった。
2匹の蚕が接近して糸を吐いて作った双子の繭(玉繭)は、糸が絡んだ部分が節になってしまう。
あるいは、蛹が羽化して繭を破ってしまった繭(出殻繭)はそこで糸が切れてしまう。
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いずれも、生糸の生産には不適格で、こうした繭は製糸場ではなく、養蚕農家で手紡ぎして自家使用になる(その節糸を使った織物が銘仙)。
その他、汚れがある繭も排除された。

「ブリュナ館」へ。
創業時の首長ポール・ブリュナと家族のために明治6年(1873)に建てられた住宅。
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木骨レンガ造。
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周囲にベランダをめぐらす高床式のコロニアル様式。
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内部は後に、学校に転用されたため原型をとどめていない。

敷地の南側は鏑川。
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製糸場で必要な水はこの川から取水した。

女工さんたちの寄宿舎(片倉工業時代:昭和15=1940年)。
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左が「浅間寮」、右が「妙義寮」。
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後悔はしていない。かなり老朽化しているように見える。

診察所(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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病室(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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「女工館」(明治6=1873年)。
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4人のフランス人女性教師のための住居。
木骨レンガ造、2階建てのコロニアル様式。

1時間半以上、歩きまわりさすがに疲労。
売店で資料を購入して退去。

行きと違う道を通って駅に向かう。
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↑ 「江原時計店」。
2階建ての建物の上に六角形の望楼を乗せている。

お腹が空いたので、「上州路うどん さくら」という店に入る。
お切りこみうどん(1080円)を注文。
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超幅広なうどん、
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もちもちしていておいしいのだが、お箸では食べにくい。
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↑ 諏訪神社

13時15分、上州富岡駅へ。
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↑ 硬券の切符
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↑ 13時30分発の高崎行き電車に乗る。
強風と寒さの中を歩き回り体力消耗、車中、居眠り。
14時07分、高崎駅に到着。
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↑ JR高崎駅のシンボル「シロクイチ(C61)達磨」と。
14時38分発「とき322号」で東京へ。
15時28分、東京駅着。



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