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<性同一性障害>保険証、「通称名」容認 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2月7日(火)

こちらは、確実な前進。

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<性同一性障害>保険証、「通称名」容認

心と体の性が一致しない性同一性障害(GID)と診断され、戸籍上は男性だが女性として生活している京都市の50代の会社経営者について、京都府酒販国民健康保険組合が、保険証に通称の女性名を記載することを認めていたことが6日、分かった。支援団体によると、公的な身分証明書にもなる保険証で通称使用が認められるのは極めて珍しい。経営者は「私たちがストレスなく社会生活を営むうえで大きな前進」と話している。

経営者は2012年にGIDと診断され、14年春に性別適合手術を受けた。ホルモン治療を受け、化粧をするなど普段から女性として暮らしている。子どもがいるため、戸籍上の氏名は日常生活への影響を考えて変更していない。

このため、医療機関で受診すると男性名で呼ばれたり、「他人の保険証は使えない」と言われたりした。人間ドックでは男性用の更衣室に案内され、心理的ストレスを抱え続けてきた。

経営者は15年8月、加入する府酒販国民健康保険組合に女性名への変更を相談。組合が厚生労働省に照会したところ、「保険者(=組合)の判断で氏名表記して差し支えない」との回答を得たため、16年8月、女性名に変更した。

GIDの人たちが保険証に表記する性別を巡っては、厚労省が12年、戸籍上の性別を裏面に記載すれば、表面は「裏面参照」と記載してもいいとの判断を示した。

だが氏名についての規定がなく、これまで経営者の保険証には住民基本台帳に基づいて男性名が記載されていた。今回の女性名表記について、厚労省は「性同一性障害を持つ人々に配慮できる方法を内部で検討し、(組合に)回答した」としている。

氏名変更は家庭裁判所の許可を得て戸籍を変えれば可能だ。だが今回の経営者のように、さまざまな事情を抱えているため手続きを取らず、通称を使っているGIDの人たちも多いとみられる。【岡崎英遠】

◇大きなメリット
GIDの当事者らで作る一般社団法人「日本性同一性障害と共に生きる人々の会」のメンバーで臨床心理士の西野明樹さん(30)の話 これまで保険証の氏名は改名しない限り、変更できないという認識だった。適合手術を受けていないGIDの人にとっても、大きなメリットになるのではないか。
『毎日新聞』2017年 2月7日(火) 7:31配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170207-00000011-mai-soci

適合手術受けない性別変更認めず 岡山家裁津山支部 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2月7日(火)

予想通り。
高裁に即時抗告するようだが、憲法判断を求めるのなら最高裁まで上げるしかないが、もう少ししっかりした理論武装しないと駄目だと思う。

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適合手術受けない性別変更認めず 家裁津山支部 臼井さんの申し立て却下

女性に生まれながら男性として生きたいと願う性同一性障害の臼井崇来人(たかきーと)さん(43)=岡山県新庄村=が、法が要件とする性別適合手術を受けずに戸籍上の性別を変更するよう求めた審判で、岡山家裁津山支部は7日までに申し立てを却下した。6日付。

柴田憲史裁判官は審判書で、性別適合手術を性別変更の要件とする性同一性障害特例法の規定について「憲法に違反するほど不合理とはいえない」と指摘。パートナーの女性と結婚の約束をしている臼井さんが女性として出産の可能性がないとする主張は「独自の見解であり、採用できない」とした。

7日午前に審判書を受け取った臼井さんは「自分の存在を否定されたようで残念。司法の壁は厚く高いが、性別に関する社会全体の考えを変えていくためにも声を上げ続けたい」と話した。臼井さん側は結論を不服として広島高裁岡山支部に即時抗告する方針。

臼井さんは、2013年に性同一性障害と診断され、14年に現在の名前に改名。性別適合手術を受けないまま昨年3月にパートナーの女性との婚姻届を提出したが不受理となり、岡山家裁への不服申し立ても却下されていた。同12月、「性別変更のために手術を実質的に強制していることは、憲法が定める自己決定権を侵害している」として、性別変更の許可を求める審判を申し立てていた。

『山陽新聞』2017年02月07日 12時56分 更新
http://www.sanyonews.jp/article/484579/1/

2月7日(火)世界遺産・富岡製糸場を見学 [旅]

2月7日(火)

6時半、起床(「東横イン前橋駅前」)。
早起きできたし、お天気も良いので(風は強いが)、世界遺産・富岡製糸場へ行くことにする。
8時20分、ホテルのロビーで朝食。
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炊き込みご飯はおいしいが、パンはよろしくない。
8時45分、チェックアウト。

前橋駅8時50分発の電車で高崎へ。
9時08分高崎駅着。
コインロッカーに荷物を入れて、階下の上信電鉄の乗り場へ。
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9時25発下仁田行きに乗車。
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上州富岡駅までは13駅、約40分。
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佐野のわたし駅を出てすぐに利根川を渡る。
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ここが謡曲「鉢木」(旅の僧姿の前執権北条時頼を没落した御家人が愛蔵の盆栽を薪にしてもてなす話)に出てくる「佐野」だという解説があった。
一般的には、下野国佐野荘(栃木県佐野市)ということになっているのだが・・・。

電車は鏑川(かぶらがわ)の広い谷を西へ西へと進む。
車内はロングシートに乗客が4割ほど。
吉井駅(高崎市吉井町)でかなり降りる。
吉井と言えば、古代上野三碑の多胡碑があるところ。
見学に行ったのはもう30年以上前。

進行方向の遠くに雪をかぶった真っ白な山が見える。
浅間山だろう(撮影できず)。

上州福島駅(甘楽町)を通過。
小幡藩織田氏2万石の城下町。
織田信長の次男信雄の末裔。
「天下布武」の英雄の血筋はこんな所に細々と受け継がれていた。

10時05分、上州富岡駅に到着。
観光客らしいのは、女子大生らしいの3人組と私だけ。
観光シーズンではない、そもそも電車でくる人は少ないのだろう。
駅前、きれいに整備されているが閑散。
「一等女工お富ちゃん」(↓)も暇そうだ。
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バスとかタクシーとかもいないので、徒歩で富岡製糸場に向かう。

町は人気(ひとけ)が少ない。
富岡市は人口5万3000人、この地方の中核都市のはずなのだが・・・。
路地に「銀座通り」とあったので、入ってみる。
自動車がぎりぎり通れるほどの狭い道の商店街。
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かなり古い建物もある。
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↑ 軽食堂「富士屋」(昭和30年=1955創業)。
面取りしたコーナーに入口があり、2階にはバルコニー。
かっては女工さんたちで賑わったらしい。

徒歩15分ほどで、世界遺産・富岡製糸場の正門に到着。
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入場料は1000円。
団体観光客がけっこういる。

正門は東側なので、入ってすぐの長大な南北棟が「東繭倉庫」(長さ104.4m、幅12.3m)。
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明治5年(1872)の建設で、木材の枠組みの間にレンガを積みあげた木骨レンガ造。
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明治初期のレンガ造の洋風建築としては最大規模であり、数少ない残存例。
レンガは、長辺と短辺を交互に並べる「フランス積」という様式。
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美しいが、構造的に地震に弱い。
群馬県のこの地域は地震災害がほとんどないのも、建物にとっては幸いした。
(南関東にあったら、地震で倒壊していたと思う)
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↑ アーチ形通路。
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↑ キーストーンの銘板
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↑ 基礎構造。これだけ長大な建物で、150年経っても、不等沈下がまったくない。
明治の職人の技術の高さがわかる。

「東繭倉庫」の1階は資料館になっているので見学。
富岡製糸場を建設した、お雇い外国人ポール・ブリュナ(Paul Brunat、1840~1908年)は、フランス人。
フランスにおける絹織物取引の中心地であるリヨンの生糸問屋に務め、慶応2年(1866)に来日し、横浜で生糸検査人をしていた。
明治3年(1870)、生糸の輸出振興のために近代的な器械製糸技術の導入を急ぐ明治新政府から官営模範製糸場の建設を委託される。
ブリュナは明治3年10月7日、年俸9000円という破格の高給で明治政府と5年契約(1871~75)を結び、富岡を建設地とすることを最終決定、製糸場の設計を横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼すると、明治4年1月22日、いったんフランスに帰国。
フランスで製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらにエミリー・アレクサンドリーヌ(18歳)と結婚。
明治4年11月8日、妻と雇員を伴い横浜港に到着すると、富岡の建設を本格化し、明治5年(1872)10月4日、操業開始に漕ぎつける。
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↑ ブリュナと雇員たち。
後列右から2人目の白い服の男性がブリュナ。
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↑ 門を入った先の建物が東繭倉庫。左手の長い建物が操糸場。

ブリュナは、契約切れにともない、明治9年2月15日、妻と日本で生まれた2人の娘と離日するが、日本の近代的製糸産業の基礎を作った人であり、もっと評価されてよい人物だと思う。

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↑ 東繭倉庫の西側(中庭側)、2階に通路がある。
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↑ 木造部分はかなり痛んでいる。
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↑ 東繭倉庫2階内部。
この巨大な空間に周囲の養蚕地帯から膨大な量の繭が運びこまれ貯蓄されていた。
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中央に柱があるが、屋根はトラス構造で支えている。
通風で繭を乾燥させるために、通常の倉庫と異なり窓が多くかつ大きい。

中庭を過って「西繭倉庫」へ。
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ここは現在、大規模修理工事中。
別料金200円を払って見学。
屋根瓦を下ろしての解体修理なので、壁はレンガで洋風なのに、屋根は瓦葺でまったくの日本伝統工法であることがよくわかった(写真はNG)。

続いて、製糸場の動力の根元である蒸気機関(復元)。
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横形単気筒式の比較的単純な蒸気機関だが、それでも当時の日本の技術ではまだ無理で、ブリュナがフランスから輸入し「ブリュナエンジン」と呼ばれた。
燃料は、高崎・吉井で採掘した石炭だった。

次に「鉄水槽」。
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明治8年(1875)建造の直径15m、深さ2.4m、貯水量約400トンの巨大水槽。
製糸場で大量に使用する水をまかなった。
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当時の最新技術であるリベット接合が用いられている。
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でも、土台は、地元の石材を積んだ在来工法。
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で、やっと「繰糸場」へ。
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↑ 入口。
ここも壁はレンガ積の洋風だが、屋根は瓦葺の和風という和洋折衷の建築。
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↑ 側面。
長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m、写っていないが屋根の上には蒸気抜きの腰屋根がある。
壁面には大きな窓を2段に設けている。

屋内に入ると、自然光の取り入れを考慮した窓の設計であるとこがよくわかる。
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創業当時は、まだ電灯がなかったから、製糸という細かな作業には十分な太陽光が必要だった。
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↑ お天気さえ良ければ、かなり明るいことがわかる。
大きな建物であるにもかかわらず、内部には柱はなく、屋根はトラス構造で支えられている。
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製糸場の内部には、現在、1966年製日産HR型自動整糸機がずらりと並んでいる。
片倉工業株式会社が1987年の操業停止まで使っていた機械だ。
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現在でも同型の機械を操業している「碓氷製糸農業協同組合」(群馬県安中市)のビデオがあり、実に巧妙な自動整糸機の技術がわかって興味深い。

とはいえ、そんなことに興味をもつ観光客がたくさんいるとは思えず・・・。
将来的には、この現代の機械類を少なくとも部分的に撤去して、創業時の製糸機械を復元・設置べきなのではないだろうか?

創業時の「繰糸場」の様子は、幸い錦絵に描かれている。
フランス式繰糸機が300釜据えられていた。
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↑ 一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」(1872年)
拡大すると整糸作業の状況がわかる。
一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (2).jpg一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (3).jpg

さて、蚕の繭から生糸を作る製糸作業を理解するためには、繭の構造を知る必要がある。
私のように養蚕地帯で子供時代を過ごした者には当たり前でも、そうでない多くの人には説明が必要だろう。

蚕蛾の幼虫が十分に成長して終齢幼虫になると、口から細い糸を吐きだし繭を作り始める。
全身を包む繭ができると、その中で蛹(さなぎ)になる。
つまり、繭は細くてとても長い1本の糸からできている。
逆に考えれば、繭を上手に解していけば1本の細くて長い糸(1300~1500mほど)になるということだ。
そうした繭の出来方からして、繭の外側のどこかに糸の先端があるはずで、それを緒口という。
製糸作業は、まず繭を煮て、繭の糸を接着しているセシリンを落とし、繭を軟らかく解しやすくし、緒口を探して、そこから糸を繰り出していくことになる。
緒口を探すのは、長らく人の手技に頼らざるを得なかった。

「東繭倉庫」で、復元したフランス式繰糸機を使った実演が行われていた。
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↑ 繭から繰り出された糸はリングを通って背後の小枠に巻きとられているのだが、糸が細すぎて写っていない。
https://www.youtube.com/watch?v=q2wzheAyN1Q
説明によると、繭5個を1組にして、そこから繰り出される5本の糸を撚(よ)って1本の生糸にして、小枠に巻きとる。
1人の女工は2組(繭10個・糸2本)を管理した。
糸を繰り出された繭は次第に薄くなり蛹が透けて見えるようになる。
そうなると、もう糸の終わりが近いので、女工は透けた繭を排除して新しい繭を加え、緒口を見つけて糸を引き出し、他の糸と合わせる。
この作業は素早く行わないと、糸に細い部分ができてしまう。
そうならないようにするのが女工の腕らしい。
繭を煮ている湯は60~70度ほどなので、火傷をしないためにも素早く行う必要がある。
ちなみに、繭を煮るための加熱は蒸気(スチーム)で行う仕組みになっていた。

話は前後するが、繰糸場で上質の生糸を生産するためには、繭の選別が重要だった。
2匹の蚕が接近して糸を吐いて作った双子の繭(玉繭)は、糸が絡んだ部分が節になってしまう。
あるいは、蛹が羽化して繭を破ってしまった繭(出殻繭)はそこで糸が切れてしまう。
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いずれも、生糸の生産には不適格で、こうした繭は製糸場ではなく、養蚕農家で手紡ぎして自家使用になる(その節糸を使った織物が銘仙)。
その他、汚れがある繭も排除された。

「ブリュナ館」へ。
創業時の首長ポール・ブリュナと家族のために明治6年(1873)に建てられた住宅。
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木骨レンガ造。
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周囲にベランダをめぐらす高床式のコロニアル様式。
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内部は後に、学校に転用されたため原型をとどめていない。

敷地の南側は鏑川。
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製糸場で必要な水はこの川から取水した。

女工さんたちの寄宿舎(片倉工業時代:昭和15=1940年)。
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左が「浅間寮」、右が「妙義寮」。
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後悔はしていない。かなり老朽化しているように見える。

診察所(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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病室(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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「女工館」(明治6=1873年)。
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4人のフランス人女性教師のための住居。
木骨レンガ造、2階建てのコロニアル様式。

1時間半以上、歩きまわりさすがに疲労。
売店で資料を購入して退去。

行きと違う道を通って駅に向かう。
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↑ 「江原時計店」。
2階建ての建物の上に六角形の望楼を乗せている。

お腹が空いたので、「上州路うどん さくら」という店に入る。
お切りこみうどん(1080円)を注文。
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超幅広なうどん、
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もちもちしていておいしいのだが、お箸では食べにくい。
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↑ 諏訪神社

13時15分、上州富岡駅へ。
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↑ 硬券の切符
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↑ 13時30分発の高崎行き電車に乗る。
強風と寒さの中を歩き回り体力消耗、車中、居眠り。
14時07分、高崎駅に到着。
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↑ JR高崎駅のシンボル「シロクイチ(C61)達磨」と。
14時38分発「とき322号」で東京へ。
15時28分、東京駅着。



教授のお宅にお呼ばれ [日常(料理・食べ物)]

2月6日(月)
(続き)
17時過ぎ、服部教授とタクシーに同乗してご自宅へ。
研究室員、研修医さんと4人で、手料理をいただきながら、ビールをを飲みながら談笑。
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↑ 鰯を酢に漬けて煮たもの
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↑ 芹のキムチ

夜も更けたのでそろそろお暇しようと思ったら、「まだメイン料理があるんですよ」。
で、出てきたのが「肉骨茶(バクテー)」。
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ぶつ切りの豚あばら肉(皮付き)、しいたけ、厚揚げを、スターアニス(大茴香)、シナモン(桂皮)、クローブ(丁子)、コショウ(胡椒)などの香料をいれた中国醤油で煮込んだ料理。
現在では、マレーシアやシンガポールの華僑の料理として知られているが、元々は中国・福建料理とのこと。
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↑ 上がスープの基、下が香料。
教授がクアラルンプールで購入。

唐辛子が入った辛い醤油につけて食べる。
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具を食べ終えたら、残り汁をご飯にかけて、そこにウーロン茶を注ぎ加え、お茶漬けのようにして食べる。
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おいしいものをたくさんいただいて、いろいろおしゃべりして、楽しい夜だった。
服部先生、ありがとうございました。
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23時、教授と奥様におもてなしのお礼を述べて辞去。

23時半、タクシーでホテルに帰着。

さすがに疲れて、ベッドに倒れ込む。
就寝、0時半(「東横イン前橋駅前」)。

2月6日(月)群馬大学医学部で講義 [お仕事(講義・講演)]

2月6日(月)  晴れ  前橋  11.8度  湿度38%(15時)   

7時、起床。
朝食は、新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のグレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。
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シャワーを浴びて、髪に、あんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
白と黒のジラフ柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、ワインレッドのバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

8時50分、家を出る。
武蔵小杉駅9時15分発のJR横須賀・総武線で東京駅へ。
10時15分発上越新幹線「Maxとき315号 」に乗車。
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車中、レポートを読む。
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↑ 故郷の山々。今年は2階席が取れたので・・・。

11時05分高崎駅に到着。
11時30分発の両毛線小山行きに乗り換え。

11時44分、県庁所在地の駅とは思えないほど、ひっしりした前橋駅に到着。
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南口すぐの「東横イン前橋駅前」に荷物を預ける。

11時50分、迎えの研究室員さんの車で 群馬大学医学部へ。
12時10分、服部健司教授(医療倫理学)の研究室に到着。
今日は、年に一度の「群馬大学医学部非常勤講師」としてのお勤め。

服部教授とのご縁は、2009年2月の横浜国立大学公ーで開講演会「身体と『アイデンティティ・トラブル』グローバル化する欲望と身体-『性同一性障害論』に隠されてしまったもの-」で講演をしたときに、目にとめていただき、その場ですぐに群馬大学にスカウトされた。
講義は2009年度からだから、早いもので2016年度でもう8回目になる。

お弁当をいただく。
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↑ 研究室から、赤城山。

13時、服部教授の講座「医の倫理学 講義・実習」開始。
大教室に130人ほどの医学生さん(1年生)でぎちぎち。

1コマ目のテーマは「性別を移行することは『病気』なのか?-『病気』の線引きを考える」。
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性同一性障害医療の現状と「過剰な医療化」「アンバランスな医療化」の問題性を指摘する。
(内容)
1 私、いつ病気になったのでしょうか?
2 なぜ、こんなことになったのか?
 (1) 性同一性障害(Gender Identity Disorder)概念の急速な流布
 (2) 「性同一性障害」の誤解
 (3) 日本における「性同一性障害」概念流布の特異性
3 「病理化」の何が問題か?
 (1) 性別移行のハードル競走化
 (2) 性別の移行に、医師が大きな役割(権限)をもつシステム
 (3) 「特例法」による手術への誘導
 (4) 性同一性障害の「特権」化
 (5) 「子供の性同一性障害」問題
 (6) RLE(Real Life Experience=望みの性別での社会生活経験)の軽視
 (7) 身体の異性化「治療」をしながら、ジェンダーを移行しない性同一性障害者の出現
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4 性別移行の病理化を見直す
 (1) 世界の趨勢
   ① 同性愛の脱病理化   
   ② 欧米&アジアのトランスジェンダーの運動   
   ③ DSM-5の改訂(2013年5月)   
   ④ WHOなどの共同声明(2014年5月)   
   ⑤ ICD-11の改訂作業
 (2) 私の立ち位置

休憩のあと、昨年同様、私の本来の研究テーマの紹介という意味で、2012年2月に放送された「ジョージポットマンの平成史(女装篇)」のDVD録画(一部)を、10分ほど流す。

2コマ目は、まず1コマ目の残りを解説。
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その後、「性別越境の歴史」を、パワーポイントを使って古代から現在まで駆け足で50分ほどで解説。
学生の皆さん、熱心に聞いてくれたが、少し詰め込み過ぎで、質疑応答の時間が5分ほどしか取れず申し訳なかった。

16時15分、終了。
4人ほどの学生さんが質問に来る。
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うち2人は(埼玉県立)熊谷高校出身で、さらに1人は秩父市小柱(おばしら)の出身で秩父鉄道で通ったのこと。
聞くと、今年度の1年生には4人いるらしい。
後輩たちの前で、講義ができて、とてもうれしかった。
 
研究室に戻って、一休み。
 
(続く)