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3月20日(月・祝)札幌から小樽へ。 [旅]

3月20日(月・祝)  曇り  小樽  8.1度  湿度52%(15時)

6時半、起床(ラ・ジェンド・ステイ札幌大通)。
学会での精神的疲労(ストレス)蓄積と寝不足で体調は良くない。

9時前、朝食。
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10時、ホテルをチェックアウト。
タクシーで札幌駅へ。
駅前で渋滞の間、運転手さんとおしゃべり。
今冬の札幌は、季節が1カ月前にずれている感じらしい。
11月に本格的な雪が降り、「雪まつり」(今年は2月12日まで)の後、ほとんど大雪がなく、3月になったら急に温かくなったとのこと。
札幌は今日も良いお天気。
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11時過ぎの「石狩ライナー」で小樽に向かう。
「銭函」というお金が貯まりそうな駅を過ぎる。
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海が見えてきた。
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石狩湾を隔てて見える白い山は暑寒別岳だろうか。

小樽の街が見えてきた。
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11時40分、小樽駅に到着。
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小樽は12年ぶり?の再訪。
駅前から海が見える街。
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それにしても、雲一つなくよく晴れている。

「日銀通り」海へ向かって下る。
旧国鉄・手宮線(南小樽駅 ~手宮駅間 2.8 km)の線路を渡る。
明治13年(1880)、官営幌内鉄道(手宮 ~札幌 ~ 幌内)の一部として手宮~札幌間が開業した日本で3番目、北海道で最初の鉄道。
昭和37年(19620)5月14日旅客営業を廃止し貨物専用線となったが、昭和60年(1985)11月5日に廃線。
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↑ 廃線区間は保存されている。雪に埋もれているあたりに色内(いろない)駅があった。

「金融資料館」(旧・日本銀行小樽支店)を見学。
明治44年(1912)の建築で、設計は東京駅の設計者として知られる辰野金吾。
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外壁のシマフクロウの像。
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夜は夜行性のふくろうが番をしている。

営業場は、高さ10.5mの柱のない吹き抜け空間。
レンガ壁から鉄骨を組んで屋根を支える構造。
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営業所カウンターの外側は、研磨した大理石(岐阜県赤坂産)で装飾。
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2階部分の壁面装飾。
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歴史的な建造物が並ぶ十字路。
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北東角(右手前)旧・三菱銀行小樽支店(1922年)、北西角(右奥)旧・北海道拓殖銀行小樽支店(1923年)、南東角(左手前)旧・第一小樽支店(1924年)。

堺町通りに入る。
石造りの商店。
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堺橋東詰の旧・百十三銀行小樽支店(1908年)。
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小樽運河へ。
中国人観光客がいっぱい。
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人が少ない運河沿いを散策。
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海が見たくなり埠頭へ。
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石狩湾の対岸の山々。ちょっとコントラストが悪い。
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お腹が空いてきたので、「中央通り」を駅方向へ。
旧・安田銀行小樽支店(1930年)。
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再び、手宮線の線路を渡る。
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昼食は、稲穂町の「魚真(うおまさ)」へ。
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少し上等のお寿司(2700円)。
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お椀ではなく土瓶蒸し。
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おいしかった。
追加で食べたいものがあったが、お腹いっぱいになってしまった。

14時、少し早いが、2日間、学会で座り続けた影響で足も痛いので、観光を切り上げてお宿へ。

15時、小樽市街の北の岬の上にある「ホテル ノイシュロス小樽」にチェックイン。
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オーシャン・ビューのお部屋の半露店(軟水)風呂に、のんびり浸かる。
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↑ お風呂からの景色

17時半、散歩に出る。
ホテルから少し下った「祝津パノラマ展望台」へ。
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ホテルが岬の断崖に建っているのがよくわかる。
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西方向、日没は残念ながら、岬の陰になって見えない。
遠くの陸地は、積丹半島。
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東方向、祝津(しゅくつ)の漁港。
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北方向、石狩湾の向こうに陸地(増毛町)が見える。
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寒さはきつくないが、岬なので風が強く髪がなびいてしまい、自撮りに苦心する。
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(続く)

早春の奈良へ(その4:京都・東寺、六孫王神社) [旅]

3月5日(日)
(続き)
【東寺】
京都駅八条口のコインロッカーに荷物を預け、15分ほど歩いて東寺へ。
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↑ 紅梅・白梅がきれい
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「京の冬の旅・特別公開」の五重塔の初層を拝観。
江戸時代前期の再建だが、堂内荘厳はかなり復元的なように思う。

金堂と講堂の仏象を見る。
講堂の「立体曼荼羅」は何度見ても壮観だ。

さすがに疲れてしまい、茶店で休憩。
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【六孫王神社】
東寺を出たのが16時過ぎ、でも、帰りの新幹線の時間まではだいぶある。
お寺の拝観はもう時間的に無理なので、時間の制約がない神社へ。
10分ほど歩き壬生八条の六孫王(ろくそんのう)神社へ。
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祭神は「六孫王」源経基(みなもとのつねもと、?~961年)。
経基は、清和天皇の第六親王・貞純親王の子で、第六親王の子(天皇の孫)なので「六孫王」と呼ばれた(文献的な証拠なし)。
平将門の乱、藤原純友の乱の鎮圧に関わったが、実際には武功はほとんどなく、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任、正四位下陸奥鎮守府将軍となった。
子の源満仲・満政・満季が武士として活躍したことから、清和源氏の祖とされるようになった(経基は、陽成天皇の皇子、元平親王の子であり、清和源氏ではなく陽成源氏とする説もある)。
社伝では、経基の邸宅「八条亭」の跡地・墓所に嫡子の満仲が社を創建したことになっている。
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経基から8代目の源頼朝(経基ー満仲-頼信ー頼義ー義家ー義忠ー為義ー義朝ー頼朝)が鎌倉幕府を開き、源義家の四男・源義国の子孫の足利尊氏が鎌倉幕府を開き、さらに義国の長男義重を祖とする新田氏の子孫と称した(系譜に接続)徳川家康が江戸幕府を開いたことから、「六孫王神社」は歴代の幕府の庇護を受けた。
我が家も、清和源氏を称しているので、源家の再興を祈願する。

バスで京都駅に戻り、お茶をした後、買い物。
18時26分の「のぞみ250号」に乗車。
20時25分、新横浜駅に到着。

JR横浜線で菊名駅へ。
東急東横線に乗り換えようとしたら、20時21分頃、祐天寺駅で発生した「人身事故」のため、渋谷~自由が丘駅間は不通で、上り電車はすべて自由が丘駅止まり。
電車の行き先表示も駅の掲示板も、みな「自由が丘」。
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私たちは武蔵小杉駅まで動いていれば帰宅に支障はないのだが、菊名駅で駅員さんが「運転再開は21時40分の予定」と言っているのが聞こえた。
運転再開まで1時間20分というのは、接触事故程度ではなく、警察の現場検証が必要な飛び込み自殺&轢断事故だと思った。
(14歳の男子中学生がホームから飛び込み自殺。運転再開は22時10分頃)。

この種の「人身事故」でいつも思うことだけど、死にたいのなら勝手にすればいいけど、死ぬ方法はできるだけ他人様に迷惑をかけない方法を選んでほしい。

21時過ぎ、帰宅。

3月5日(日)早春の奈良へ(その3:西大寺・平城宮跡・海龍王寺) [旅]

3月5日(日)  薄曇  奈良  16.8度  湿度33%(15時) 

6時、起床(ホテル・アジール奈良・アネックス)。
9時前にホテルを出て、タクシーで近鉄西大寺駅へ。
コインロッカーに荷物を預けて、駅名の起源の西大寺へ。

【西大寺】
称徳天皇が藤原仲麻呂の乱(764)の後、重祚した称徳天皇が、鎮護国家を願って七尺の金銅四天王像を勅願したことに始まる奈良時代末期に建立された官大寺。
しかし、古代の建物はなにも残っていない。
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↑ 西大寺境内。右が本堂、正面が愛染堂、左が東塔跡。
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↑ 西大寺の東塔跡。
当初、八角七重塔として計画されたが、称徳天皇(770年崩御)の没後、縮小して通常の四角五重塔が建てられた。
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↑ 外側の八角形のラインが当初計画の八角七重塔に痕跡。
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↑ 本堂の縁側から俯瞰撮影。
創建時の礎石が残る。
基壇の石積は古代のものではなく、後世(近世?)のもの。

衰退した西大寺を復興したのが、鎌倉時代の真言宗の僧・叡尊(えいそん、1201〜1290年、興正菩薩)。
叡尊は戒律の復興に努め、貧者・病者の救済など社会福祉事業にも尽力し、真言律宗の開祖となった。
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↑ 愛染堂に安置されている叡尊座像(1280年、仏師善春、国宝)。
叡尊80歳の時の肖像で、鎌倉肖像彫刻の傑作。
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↑ 本堂の本尊は、釈迦如来立像(1249年、仏師善慶、重要文化財)。
「清凉寺式釈迦如来像」の典型で、正身の釈迦の姿を写したという北嵯峨・清凉寺の「三国伝来」の釈迦像像の模刻。
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↑ 愛染堂の本尊、愛染明王像(1247年、仏師善円、重要文化財)。
小像ながら、日本の愛染明王像の代表作。
秘仏なので、今回は拝めなかった。

愛染堂での会話。
僧侶「初めてのお詣りですかな?」
私 「いえ、40年ぶりです」
僧侶「というと、赤ちゃんの頃ですな」

なかなか「修行」を積んだ僧のようだ。

最後に、西大寺の起源である四天堂へ。
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↑ 四天堂の本尊、十一面観音立像(平安時代後期、重要文化財)。
右手に水瓶、左手に錫杖をもつ長谷寺様式の6mを超える巨像。
叡尊が京都白河にあった法勝寺十一面堂の本尊を移し修復したもの。
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↑ 増長天の邪鬼。
これだけが、創建期(奈良時代末期)のもの。
【平城宮跡】
西大寺からてちてち歩いて、平城宮跡へ。
国立奈良文化財研究所の資料館を見学。
ビデオの時代考証がおかしい。
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2010年の平城遷都1300年を記念して復元された(第一次)大極殿を見る。
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屋内の壁画があっさりした「大和絵」風で明らかに変。
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この時代は、ごてごての唐風のはず。
観光施設としての「受け」を重視して、時代考証を軽視する姿勢は大いに疑問。

(第二次)大極殿跡へ。
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日本古代史の研究者だった男性時代、何度も訪れている場所。
とても感慨深い。
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広大な宮跡を横断して「東院庭園」へ。
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↑ 東院南門。
「東院庭園」は、平城宮東張出し部の南東隅から発見された大規模な庭園遺跡。
称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催した。
つまり、称徳天皇と法王道教の夢のあと。
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ここの復元は、発掘データに忠実でGood Job。
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html

【海龍王寺】
歩き始めて3時間、そろそろ右足が痛くなり始めた。
平城宮の東に接する法華寺の前を過ぎ、左京東二坊大路の西にある海龍王寺へ。
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古代史専攻の学生・院生時代、奈良の古代寺院のほとんどは歩き回ったが、なぜかこのお寺は縁がなかった。
一度、訪ねた時、閉まっていたことを思い出した。
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光明皇后の皇后宮(旧:右大臣藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に位置することから隅寺(すみでら)の別称がある。
創建年代は明らかでなく、境内から飛鳥時代の古瓦が出土していること、平城京の東二坊大路が海龍王寺の境内を避けてやや東にずれていることなどから、平城京遷都以前に遡る可能性が強い
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伽藍配置は中金堂の南に東金堂・西金堂が並ぶ三金堂様式だが、奈良時代の建物としては西金堂(鎌倉時代に大改修:重要文化財)のみが残る。
西金堂の内部におかれている五重小塔(総高4.01m:国宝)は、奈良時代の五重塔の数少ない遺例。
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↑ これが見たかったのだ。念願がかなった。

【昼食】
いよいよ足が痛くなってきたので、法華寺町のバス停12時44分の奈良交通のバス(10分も延着)に乗って近鉄西大寺駅に戻る。
駅近くのビルのレストラン街で昼食。
「Piano」というイタリアンの店。
ランチセットA(1480円)を注文。
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↑ パンとサラダ
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↑ ミネストローネのフジッリ
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↑ デザートとコーヒー
やや薄味だったが、ホテルの朝食があまりにひどかったので、おいしく感じられた。

近鉄西大寺駅14時25分発特急で京都へ。
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(続く)

早春の奈良へ(その2:東大寺二月堂修二会) [旅]

3月4日(土)
(続き)
14時半、奈良国立博物館の特別陳列「お水取り」を見学。
その後、東大寺ミュージアムの講堂で西山厚先生(帝塚山大学教授)の講義を聴く。

17時半、二月堂に向かう。
35年?ぶりの東大寺二月堂修二会(お水取り)。
土曜日ということですごい人出。
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1時間20分前に行って、まずまずの場所をなんとか確保。
その間、ずっと立ちっぱなしなので、坐骨神経痛持ちには辛い。

「お松明」は明暗差が大きく、コンパクト・デジカメでは撮影が難しい。
「数打ちゃ当たる」で、たくさん撮って、この3枚がベストショット。
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3月4日(土)早春の奈良へ(その1:室生寺・長谷寺) [旅]

3月4日(土)  晴れ  奈良  15.8度  湿度40%(15時)  

超早起き(3時半)して、家猫さんのお供で、早春の奈良へ。
5時半、家を出る。
新横浜駅6時34分発「のぞみ3号」に乗車。
7時51分名古屋駅に到着、そこからJR東海のバスツアー。

【室生寺】
まず、室生寺へ。
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室生寺五重塔。
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【長谷寺】
次に長谷寺へ。
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長谷寺、しだれ梅。
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長谷寺、牡丹。
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長谷寺、福寿草。
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長谷寺、観音堂。
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(続く)

2月7日(火)世界遺産・富岡製糸場を見学 [旅]

2月7日(火)

6時半、起床(「東横イン前橋駅前」)。
早起きできたし、お天気も良いので(風は強いが)、世界遺産・富岡製糸場へ行くことにする。
8時20分、ホテルのロビーで朝食。
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炊き込みご飯はおいしいが、パンはよろしくない。
8時45分、チェックアウト。

前橋駅8時50分発の電車で高崎へ。
9時08分高崎駅着。
コインロッカーに荷物を入れて、階下の上信電鉄の乗り場へ。
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9時25発下仁田行きに乗車。
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上州富岡駅までは13駅、約40分。
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佐野のわたし駅を出てすぐに利根川を渡る。
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ここが謡曲「鉢木」(旅の僧姿の前執権北条時頼を没落した御家人が愛蔵の盆栽を薪にしてもてなす話)に出てくる「佐野」だという解説があった。
一般的には、下野国佐野荘(栃木県佐野市)ということになっているのだが・・・。

電車は鏑川(かぶらがわ)の広い谷を西へ西へと進む。
車内はロングシートに乗客が4割ほど。
吉井駅(高崎市吉井町)でかなり降りる。
吉井と言えば、古代上野三碑の多胡碑があるところ。
見学に行ったのはもう30年以上前。

進行方向の遠くに雪をかぶった真っ白な山が見える。
浅間山だろう(撮影できず)。

上州福島駅(甘楽町)を通過。
小幡藩織田氏2万石の城下町。
織田信長の次男信雄の末裔。
「天下布武」の英雄の血筋はこんな所に細々と受け継がれていた。

10時05分、上州富岡駅に到着。
観光客らしいのは、女子大生らしいの3人組と私だけ。
観光シーズンではない、そもそも電車でくる人は少ないのだろう。
駅前、きれいに整備されているが閑散。
「一等女工お富ちゃん」(↓)も暇そうだ。
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バスとかタクシーとかもいないので、徒歩で富岡製糸場に向かう。

町は人気(ひとけ)が少ない。
富岡市は人口5万3000人、この地方の中核都市のはずなのだが・・・。
路地に「銀座通り」とあったので、入ってみる。
自動車がぎりぎり通れるほどの狭い道の商店街。
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かなり古い建物もある。
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↑ 軽食堂「富士屋」(昭和30年=1955創業)。
面取りしたコーナーに入口があり、2階にはバルコニー。
かっては女工さんたちで賑わったらしい。

徒歩15分ほどで、世界遺産・富岡製糸場の正門に到着。
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入場料は1000円。
団体観光客がけっこういる。

正門は東側なので、入ってすぐの長大な南北棟が「東繭倉庫」(長さ104.4m、幅12.3m)。
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明治5年(1872)の建設で、木材の枠組みの間にレンガを積みあげた木骨レンガ造。
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明治初期のレンガ造の洋風建築としては最大規模であり、数少ない残存例。
レンガは、長辺と短辺を交互に並べる「フランス積」という様式。
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美しいが、構造的に地震に弱い。
群馬県のこの地域は地震災害がほとんどないのも、建物にとっては幸いした。
(南関東にあったら、地震で倒壊していたと思う)
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↑ アーチ形通路。
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↑ キーストーンの銘板
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↑ 基礎構造。これだけ長大な建物で、150年経っても、不等沈下がまったくない。
明治の職人の技術の高さがわかる。

「東繭倉庫」の1階は資料館になっているので見学。
富岡製糸場を建設した、お雇い外国人ポール・ブリュナ(Paul Brunat、1840~1908年)は、フランス人。
フランスにおける絹織物取引の中心地であるリヨンの生糸問屋に務め、慶応2年(1866)に来日し、横浜で生糸検査人をしていた。
明治3年(1870)、生糸の輸出振興のために近代的な器械製糸技術の導入を急ぐ明治新政府から官営模範製糸場の建設を委託される。
ブリュナは明治3年10月7日、年俸9000円という破格の高給で明治政府と5年契約(1871~75)を結び、富岡を建設地とすることを最終決定、製糸場の設計を横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼すると、明治4年1月22日、いったんフランスに帰国。
フランスで製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらにエミリー・アレクサンドリーヌ(18歳)と結婚。
明治4年11月8日、妻と雇員を伴い横浜港に到着すると、富岡の建設を本格化し、明治5年(1872)10月4日、操業開始に漕ぎつける。
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↑ ブリュナと雇員たち。
後列右から2人目の白い服の男性がブリュナ。
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↑ 門を入った先の建物が東繭倉庫。左手の長い建物が操糸場。

ブリュナは、契約切れにともない、明治9年2月15日、妻と日本で生まれた2人の娘と離日するが、日本の近代的製糸産業の基礎を作った人であり、もっと評価されてよい人物だと思う。

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↑ 東繭倉庫の西側(中庭側)、2階に通路がある。
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↑ 木造部分はかなり痛んでいる。
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↑ 東繭倉庫2階内部。
この巨大な空間に周囲の養蚕地帯から膨大な量の繭が運びこまれ貯蓄されていた。
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中央に柱があるが、屋根はトラス構造で支えている。
通風で繭を乾燥させるために、通常の倉庫と異なり窓が多くかつ大きい。

中庭を過って「西繭倉庫」へ。
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ここは現在、大規模修理工事中。
別料金200円を払って見学。
屋根瓦を下ろしての解体修理なので、壁はレンガで洋風なのに、屋根は瓦葺でまったくの日本伝統工法であることがよくわかった(写真はNG)。

続いて、製糸場の動力の根元である蒸気機関(復元)。
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横形単気筒式の比較的単純な蒸気機関だが、それでも当時の日本の技術ではまだ無理で、ブリュナがフランスから輸入し「ブリュナエンジン」と呼ばれた。
燃料は、高崎・吉井で採掘した石炭だった。

次に「鉄水槽」。
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明治8年(1875)建造の直径15m、深さ2.4m、貯水量約400トンの巨大水槽。
製糸場で大量に使用する水をまかなった。
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当時の最新技術であるリベット接合が用いられている。
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でも、土台は、地元の石材を積んだ在来工法。
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で、やっと「繰糸場」へ。
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↑ 入口。
ここも壁はレンガ積の洋風だが、屋根は瓦葺の和風という和洋折衷の建築。
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↑ 側面。
長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m、写っていないが屋根の上には蒸気抜きの腰屋根がある。
壁面には大きな窓を2段に設けている。

屋内に入ると、自然光の取り入れを考慮した窓の設計であるとこがよくわかる。
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創業当時は、まだ電灯がなかったから、製糸という細かな作業には十分な太陽光が必要だった。
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↑ お天気さえ良ければ、かなり明るいことがわかる。
大きな建物であるにもかかわらず、内部には柱はなく、屋根はトラス構造で支えられている。
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製糸場の内部には、現在、1966年製日産HR型自動整糸機がずらりと並んでいる。
片倉工業株式会社が1987年の操業停止まで使っていた機械だ。
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現在でも同型の機械を操業している「碓氷製糸農業協同組合」(群馬県安中市)のビデオがあり、実に巧妙な自動整糸機の技術がわかって興味深い。

とはいえ、そんなことに興味をもつ観光客がたくさんいるとは思えず・・・。
将来的には、この現代の機械類を少なくとも部分的に撤去して、創業時の製糸機械を復元・設置べきなのではないだろうか?

創業時の「繰糸場」の様子は、幸い錦絵に描かれている。
フランス式繰糸機が300釜据えられていた。
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↑ 一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」(1872年)
拡大すると整糸作業の状況がわかる。
一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (2).jpg一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 (3).jpg

さて、蚕の繭から生糸を作る製糸作業を理解するためには、繭の構造を知る必要がある。
私のように養蚕地帯で子供時代を過ごした者には当たり前でも、そうでない多くの人には説明が必要だろう。

蚕蛾の幼虫が十分に成長して終齢幼虫になると、口から細い糸を吐きだし繭を作り始める。
全身を包む繭ができると、その中で蛹(さなぎ)になる。
つまり、繭は細くてとても長い1本の糸からできている。
逆に考えれば、繭を上手に解していけば1本の細くて長い糸(1300~1500mほど)になるということだ。
そうした繭の出来方からして、繭の外側のどこかに糸の先端があるはずで、それを緒口という。
製糸作業は、まず繭を煮て、繭の糸を接着しているセシリンを落とし、繭を軟らかく解しやすくし、緒口を探して、そこから糸を繰り出していくことになる。
緒口を探すのは、長らく人の手技に頼らざるを得なかった。

「東繭倉庫」で、復元したフランス式繰糸機を使った実演が行われていた。
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↑ 繭から繰り出された糸はリングを通って背後の小枠に巻きとられているのだが、糸が細すぎて写っていない。
https://www.youtube.com/watch?v=q2wzheAyN1Q
説明によると、繭5個を1組にして、そこから繰り出される5本の糸を撚(よ)って1本の生糸にして、小枠に巻きとる。
1人の女工は2組(繭10個・糸2本)を管理した。
糸を繰り出された繭は次第に薄くなり蛹が透けて見えるようになる。
そうなると、もう糸の終わりが近いので、女工は透けた繭を排除して新しい繭を加え、緒口を見つけて糸を引き出し、他の糸と合わせる。
この作業は素早く行わないと、糸に細い部分ができてしまう。
そうならないようにするのが女工の腕らしい。
繭を煮ている湯は60~70度ほどなので、火傷をしないためにも素早く行う必要がある。
ちなみに、繭を煮るための加熱は蒸気(スチーム)で行う仕組みになっていた。

話は前後するが、繰糸場で上質の生糸を生産するためには、繭の選別が重要だった。
2匹の蚕が接近して糸を吐いて作った双子の繭(玉繭)は、糸が絡んだ部分が節になってしまう。
あるいは、蛹が羽化して繭を破ってしまった繭(出殻繭)はそこで糸が切れてしまう。
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いずれも、生糸の生産には不適格で、こうした繭は製糸場ではなく、養蚕農家で手紡ぎして自家使用になる(その節糸を使った織物が銘仙)。
その他、汚れがある繭も排除された。

「ブリュナ館」へ。
創業時の首長ポール・ブリュナと家族のために明治6年(1873)に建てられた住宅。
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木骨レンガ造。
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周囲にベランダをめぐらす高床式のコロニアル様式。
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内部は後に、学校に転用されたため原型をとどめていない。

敷地の南側は鏑川。
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製糸場で必要な水はこの川から取水した。

女工さんたちの寄宿舎(片倉工業時代:昭和15=1940年)。
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左が「浅間寮」、右が「妙義寮」。
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後悔はしていない。かなり老朽化しているように見える。

診察所(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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病室(片倉工業時代:昭和14=1939年以降)。
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「女工館」(明治6=1873年)。
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4人のフランス人女性教師のための住居。
木骨レンガ造、2階建てのコロニアル様式。

1時間半以上、歩きまわりさすがに疲労。
売店で資料を購入して退去。

行きと違う道を通って駅に向かう。
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↑ 「江原時計店」。
2階建ての建物の上に六角形の望楼を乗せている。

お腹が空いたので、「上州路うどん さくら」という店に入る。
お切りこみうどん(1080円)を注文。
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超幅広なうどん、
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もちもちしていておいしいのだが、お箸では食べにくい。
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↑ 諏訪神社

13時15分、上州富岡駅へ。
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↑ 硬券の切符
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↑ 13時30分発の高崎行き電車に乗る。
強風と寒さの中を歩き回り体力消耗、車中、居眠り。
14時07分、高崎駅に到着。
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↑ JR高崎駅のシンボル「シロクイチ(C61)達磨」と。
14時38分発「とき322号」で東京へ。
15時28分、東京駅着。



晩秋の奈良(2日目の3:長谷寺) [旅]

11月27日(日)

雨の中、観音信仰の古刹(西国観音霊場第8番)長谷寺へ。

坐骨神経痛が悪化した右足を引きずりながら長い回廊を上る。
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やっと観音堂が見えてきた。
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お参りした後、崖造りの「舞台」に出てみたが、雲の中状態。
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せっかくここまで来たのに・・・と、残念に思っていたら、雲が動いて、視界が良くなった。
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名残の紅葉。
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観音様のご利益かな。
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宝物館を見た後、門前の「酢屋長」で休憩。
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コーヒーも、おぜんざい(家猫さん注文)も、おいしかった。
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晩秋の奈良(2日目の2:長岳寺) [旅]

11月27日(日)

止まない雨の中、山の辺の道の真言宗の古刹、長岳寺へ。
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大学1年の夏、奈良から山の辺の道を歩いて、このお寺にたどり着いて以来、40数年ぶりの再訪。

本堂から。
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狩野山楽(1559年~1635年)筆とされる「大地獄絵」をご住職の「絵解き」(解説)で拝観。
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安土桃山~江戸時代初期の作品で、地獄絵図としては古いものではないが、さすがに構図が巧み。
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↑ 閻魔大王の前には、生前の行いを映す「浄玻璃の大鏡」。
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↑ 罪業の重さを計る「業の秤」。
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↑ 無限地獄に堕ちる亡者を乗せる火車(かしゃ)。
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↑ 聖衆来迎。

お庭の紅葉は、もう盛りを過ぎていた。
住職のお話だと、昨年より1週間から10日も早いとのこと。
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この頃から、冷えで座骨神経痛が悪化。
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↑ 塀越しに見えたきれいな花(皇帝ダリア)。

昼食は、「三輪そうめん 山本」で、にゅうめんと柿の葉寿司。
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11月27日(日)晩秋の奈良(2日目の1:談山神社) [旅]

11月27日(日)  雨  奈良  11.7度  湿度100%(15時)

本降りの雨の中、多武峰(とうのみね)・談山(たんざん)神社へ。

標高488mの山中なので、ほとんど雲の中。
ところが、到着した直後、雲が動き始め、雨が小降りに。
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わずか10分ほどの間、雲が切れて視界が良くなった。
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2枚の写真の撮影時刻の差は22分。
神慮、あらたかなり。

多武峰・談山神社は、藤原氏の祖、藤原(中臣)鎌足(614~669)を祀る。
十三重塔(国指定重要文化財)は 享禄5年(1532)の再建。
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拝殿から。
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境内から離れた丘の上にある「淡海公(藤原不比等659~720)」を供養したと伝える十三重石塔。
永仁6年(1298)の造営。
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(続く)

晩秋の奈良へ(1日目の2:東大寺) [旅]

11月26日(土)

東大寺へ。
「東大寺ミュージアム」を見学した後、大仏殿から二月堂へ境内を散策。
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もう薄暗くなっていて、写真を撮るのに苦労する。