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縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる [お仕事(古代史)]

8月31日(水)

縄文人のゲノム解析に成功、これは遺伝子人類学の画期的な大成果。

ただし、縄文人の遺伝子が、大陸の東アジア人(中国南部先住民、中国・北京の中国人、ベトナム人など)とはかなり遠く、現代人ではアイヌ人に比較的近く、次いで沖縄人、さらに離れて東日本人という結論は、従来の推定通り。

最大の問題は、縄文人がどこから日本列島にきたのか?ということ。
現在、地球上に生きている人たちの中に、アイヌ人より縄文人に近い遺伝子をもつ人たちがいるのだろうか?
たぶん、もういないのだろうな・・・。
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縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる

縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。縄文人のルーツを考えるうえでの手がかりになりそうだ。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表する。

福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

ログイン前の続き現生人類ホモ・サピエンスは、4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統の中から生まれたと考えられるという。

日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

頭骨と歯の特徴から、現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。(神田明美)

『朝日新聞』2016年9月1日00時12分
http://digital.asahi.com/articles/ASJ8Z5S0LJ8ZULBJ00M.html?rm=347

3月16日(水)「産経学園・自由丘」の講座「『続日本紀』と古代史」終了 [お仕事(古代史)]

3月16日(水)

「産経学園・自由丘」の講座「『続日本紀』と古代史」、今日で終了。
28年6カ月、684回。

全40巻の前半(巻1~20)文武天皇元年(697)~天平宝字2年(758)7月紀まで、文武・元明・元正・聖武・孝謙の5代の記録を精読した。

当初30人近くいた受講生のほとんどが彼岸に旅立たれ、最後までお付き合いいただいたのは2人。

私も32歳から、社会的性別の移行を挟んで60歳まで、毎月2回、夏休みもなく年間24回の講義を続けたが、さすがに疲れた
ここらへんが引き際だろう。

3月2日(水)残すところあと1回 [お仕事(古代史)]

3月2日(水)  晴れ  東京  12.4度  湿度32%(15時)

8時15分、起床。
朝食は新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のカカオ・ド・クレームとコーヒー。
IMG_6225.JPG
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローして、あんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

10時、家を出る。
午前中、自由が丘「産経学園」で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻20の購読。
天平宝字2年(758)4月~6月条。

その後、今朝、新聞各紙で報道された福岡県糸島市三雲・井原遺跡で発見の弥生時代後期(1~2世紀)の硯について解説。
SCN_0013.jpg
後漢が朝鮮半島北部(平壌付近)に置いた楽浪郡の土器といっしょに出土している点が興味深い。
今まで文字の受容については、文字そのもの(刻書土器・墨書土器など)が注目されていたが、硯・墨・筆などの筆記具にも注意を向けるべきだろう。

12時、終了。
28年間続けたこの講座も、いよいよ次回が最終回。

昼食は、タイ家庭料理「クルン サイアム」へ。
今日は、直前にグループ客が出ていったので、待たずに案内される。
久しぶりにグリーンカレーのランチを注文(1080円)。
IMG_6226.JPGIMG_6227.JPG
タイ旅行で、あまりカレーを食べられなかったから。

郵便局、銀行を回って、学芸大学駅に移動。
また銀行に寄った後、東口商店街の「ドトール」で時間調整を兼ねて読書。
(続く)

2月17日(水)残すところあと2回 [お仕事(古代史)]

2月17日(水)  晴れのち曇り  東京  13.4度  湿度29%(15時)

8時15分、起床。
朝食は新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のカカオ・ド・クレームとコーヒー。
IMG_5523.JPG
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローして、あんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ
IMG_5531(2).jpg

10時、家を出る。
午前中、自由が丘「産経学園」で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻20の購読。
天平宝字2年(758)正月~3月条。
28年間続けたこの講座も、残すところあと2回。
なんとか巻20を読み終われそう。

12時、終了。

昼食は、自由が丘のインド料理「タージマハール(TajMahal)」のBランチ(1058円)。
IMG_5524.JPG
カレーは、日替わりのオクラ&チキン(手前)とマトン。
IMG_5526.JPG
オクラカレー、けっこう好き。
ナンが大きくて、かなりお腹いっぱい。
(続く)

9月22日(月)「奈良時代政治史」の最終講義―20年240回の大団円― [お仕事(古代史)]

9月22日(月)   晴れのち曇り   東京   27.2度   湿度49%(15時)
7時20分、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、グレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
黒地に茶と白の花柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、茶色のトートバッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
公園口から歩いて産経学園(吉祥寺)へ。
P1120234 (2).JPG
↑ このビルの5階にある。
P1120233 (2).JPG
↑ 今日が最終講義なので、写真を撮った。

10時30分、「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
最終講「平安遷都への道」の3回目、そして最終講義。
平安遷都の詔に続いて、新京を「平安京」と号する詔を読む。

『日本後紀』(逸文)延暦13年(794)11月丁丑(8日)。
詔す。云々、此の國、山河襟帯にして、自然に城を作す。斯の形勝に因りて、新號を制すべし。宜しく山背國を改めて、山城國と爲すべし、子来の民、謳歌の輩、異口同辞して、號して平安京と曰ふ。

1994年10月、神亀元年(724)の聖武天皇の即位から始めた「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義、20年240回で、ついに平安京に到達。

最後に平安京出迎えた最初の正月16日の「踏歌の節会」で唄われた新京を寿ぐ漢詩を読み、はやし言葉の「新年楽、平安楽土、万年春」の寿詞で講義を終える。

20数名で始まったこの講座も、受講生の方が徐々に逝かれて最後は3人。
最後まで聴いてくださった方に「長い間、ほんとうにありがとうございました。どうかお健やかにお過ごしください」と挨拶。
20年の歳月を思うと、感慨無量。
20年続いた講座もそう多くないだろが、なにしろ14年は男性講師、6年は女性講師、そんな例はほとんどないだろう。

新宿の教室が廃止になったとき、快く引き受けてくれた所長さんに挨拶。
12時05分、辞去。
(続く)

8月25日(月)平安京の歴史地理 [お仕事(古代史)]

8月25日(月)   曇りときどき雨   東京   28.9度   湿度62%(15時)
7時20分、起床。
睡眠時間5時間では、旅の疲れは取れず、体調不良。
喉に違和感があるが、声は普通に出るようだ。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、マンゴー・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
黒地に茶と白の花柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
雨の中、産経学園(吉祥寺)へ。

10時30分、「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
最終講「平安遷都への道」の2回目。
前回述べた長岡京の水害問題について、先日の広島の大規模土石流災害と絡めて再説。
つまり、人工的に地形を改変しても、何かあると自然は元の地形に戻りたがるということ。
延暦11年(792)6月22日の大雷雨による溢水氾濫(土石流の可能性もあり)で長岡宮の式部省南門が倒壊するが、そもそも小畑川の谷を埋めて宮に必要な平地を造成していた可能性が高い。
また、同年8月9日の大雨による桂川の大洪水では、長岡京東南部(左京3坊以東、6条以南)はほぼ水没したと思われる。
これらの水害によって、水運に恵まれながら洪水に弱かった長岡京の地形的特質(構造的欠陥)が強く意識され、それがひとつのきっかけになって、桓武天皇の再遷都決断に至ったことは間違いないと思う。

続いて、再遷都先の平安京の地形的特色。
平安京をめぐる地形で、最大の問題は、鴨川の流路、とりわけ賀茂川と高野川の合流点の位置と形状について。
平安京3 (2).jpg
これが自然のものなのか?人工的に改変された結果なのか?
改変されたものだとしたら、その時期はいつなのか?
まず、地形学的にY字があまりに整い過ぎている。
川が合流する時は、一般的にどちらかが優勢(本流になる)でどちらかが劣勢(支流になる)で、イーブンに合流するということは稀。
つまり、合流の形としては大文字のYではなく、小文字のy(もしくは、その裏返し)になる。

さらに、平安京の都市設計として・・・。
平安京1 (2).jpg
双ヶ岡から東に1800丈(10里)、船岡山から東に900丈(5里)の位置に最初から合流点があったというのは、いくらなんでも都合が良すぎる。
丘や山は動かせないから、その位置に川の合流点を設定して移したと考えるのが合理的。
その際、流路を変更したのは賀茂川だと思う。
おそら南の方向に流下してしたのを南東方向に遷して、設定された高野川との合流点に持って行ったのではないだろうか。

また、川(水)は低い方に流れるのが自然の理。
平安京北東部は北白川の扇状地で傾斜は北東が高く南西に低い。
つまり合流して流れを真南に変える鴨川の現状の流路はかなり不自然。
等高線に従えば、北東から南西に流れる高野川の延長上に流れるのが自然。

ところで、ネットを探していたら、こんな地図が見つかった。
平安京2.jpg
 「京都の水辺の歴史的変遷と都市防災に関する研究」(京都大学防災研究所年報 第47号)

平安京造営以前の流路の推定図。
高野川の延長上に平安京左京を北北東から南南西に流れる流路が2本ある。
おそらくこれが高野川の旧流路だろう。
また、京域の北を南流して京域に入ったあたりから南西に流れる流路がある。
これが賀茂川の旧流路ではないだろうか。
この旧流路は東三条院の泉や神泉苑の池の湧水など伏流として残っていて、現在も井戸水に恵まれていると聞く。

どうも、平安遷都決定後に、高野川との合流点の設定、賀茂川の付け替え、(高野川と賀茂川が合流した)鴨川の京域の東側を真南に流れる流路の設定という工事が行われたのではないだろうか。
これはかなりの大土木工事だが、それなくしては平安京の設定は不可能であり、現在に至る「鴨川のY字の不思議」は解決できないと思う。

では、その大土木工事を発想したのは誰だろうか?
私は造宮大夫和気清麻呂だと思う。
清麻呂は『日本後紀』延暦18年(799)2月乙未(21日)条の薨伝に「贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨ず。(中略)長岡の新都、十載を経て未だ功成らず、費、勝げて計るべからず。清麻呂潜に奏し、上(桓武天皇)をして遊猟に託し葛野の地を相せしむ。更にして上、都を遷す。(下略)」と見えるように、平安京への再遷都を桓武天皇に進言した人である。
民政に手腕を発揮した有能な実務官僚であり、また摂津大夫の官にあった延暦4年(785)に、難波の神崎川と淀川を直結させる工事を行い長岡京方面への物流路を整え、さらに延暦7年(788)には上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとする(のべ23万人を投じたが失敗)など、土木的発想を持った人だった。
平安京の造営については、当該時期の正史『日本後紀』が欠失していて史料が乏しく、詳しい事情が解らないのが残念だ。

そんな話をする。
長い間(20年)、続けてきたこの講座もいよいよ残り1回。
なんとか大団円となりそうだ。
12時05分、終了。
(続く)

8月20日(水)今日の古代史(飛鳥・都塚古墳) [お仕事(古代史)]

8月20日(水)  晴れ   東京  34.5度  湿度58%(15時)
暑さで目が覚める。
涼しい部屋に移動して30分ほどクールダウン。
8時30分、起床。
朝食は、ダークチェリーパイとコーヒー
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の小菊模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ
10時、家を出る。
今日は真夏の日差で暑い!
駅に着くと、汗が噴き出る。
東急東横線自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
教室に行ったら、前回に引き続き生徒さんが1人しかいない。
皆さん、ご高齢なので、無理はしない方がいいのは確かだが、これでは講義にならない。
2回続けて、雑談というわけにもいかないので、作ってきた資料を渡して「飛鳥・都塚古墳について」話をする。
都塚に行ったのは、学生時代の飛鳥史跡巡り旅行の時だからもう38年くらい前のこと。
横穴式石室が開口していて、内部に収められた家形石棺の写真を撮った覚えがある。
都塚古墳3.jpg
石室の積み方から6世紀後半の築造という認識。
墳丘はかなり崩れていて方墳とも円墳ともつかない状態、大きさは20mクラス。
飛鳥地方のこの時期の古墳としては、小さくもないが大きくもないという感じで、正直なところそれほど重要な古墳とは思わなかった。

当時はまだ島庄遺跡も発見されてなかったので、石舞台古墳が蘇我馬子(551?~626)の墓という説はあったが、飛鳥盆地東南隅のこの地が蘇我本宗家の拠点という認識は無かったと思う。
その後、島庄遺跡の発掘が進み大型建物群や方形池などが発見され、「嶋大臣」(蘇我馬子)の邸宅跡である可能性が高まり、それに隣接する石舞台古墳が馬子の墓であるという説が有力になった。
都塚古墳1.jpg
都塚古墳2.jpg
都塚古墳4.jpg
今回の発掘で、石舞台古墳の東南400mほどにある都塚古墳が、40×41mの基壇の上に8段?に造成された階段状の大型方墳であることが、ほぼ確定的になった。
そうなると、6世紀後半にこの地にこれだけの規模をもつ墓を造成できるのは、馬子の父で、蘇我氏の権力基盤を築いた大臣(おおおみ)蘇我稲目(~570年)の他にはいない。
墓誌が発見されたわけではないので確定ではないが、まず9割方、間違いないだろう。

注目されるのは高句麗の積石塚との関係。
高句麗好太王(在位:391~413年)の陵とする説が強い将軍塚古墳(中華人民共和国吉林省集安市:5世紀前半)などとの類似性。
高句麗将軍塚古墳 (2).jpg
↑ 一辺31.6m、高さ12.5m、7段の築成。

稲目の父は「高麗(こま)」、祖父は「韓子(からこ)」で、その名から朝鮮半島との関係が強く感じられる。
さらに曽祖父の「満智(まち)」は、百済の権臣木満智との同一人物説がある。
その当否はともかく、稲目は欽明朝に渡来した仏教を受容するなど、国際情勢に通じた人物だったことは間違いなさそう。
稲目が自らの墓に、朝鮮半島の様式を取り入れたとしてもおかしくはない。
12時、終了。

昼食は、久しぶりに自由が丘駅南口の「Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(830円)。
P1110349 (2).JPG

東横線で学芸大学駅に移動して、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理と少し調べもの。

東口商店街の「ドトール」で冷たい物を飲みながら、7月18日に平凡社で行った人文地理学者の加藤政洋さん(立命館大学准教授)との対談の原稿に、1時間半ほどかけて目を通す。
う~ん、けっこうあちこち話題が飛んだ対談だったのに、ちゃんとまとまっている。
編集者のAさんの有能さに感服。
(続く)

7月28日(月)長岡京の洪水と平安遷都への道 [お仕事(古代史)]

7月28日(月)   晴れ   東京   30.7度   湿度53%(15時)
7時20分、起床。
気温も湿度も下がり、久しぶりにさわやかな目覚め。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、カスタードクリーム・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
移動中、明治大学「ジェンダー論」のレポート読み(7本)。
10時30分、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」の5回目。
延暦11年(792)の長岡京と洪水の史料を読み、水運に恵まれながら洪水に弱かった長岡京の地形的特質について解説。
続いて最終講「平安遷都への道」に入る。
延暦12年(793)の平安京へ遷都決定についての史料を読む。
長い間(20年)、続けてきたこの講座も残りあと2回。
12時05分、終了。

12時15分、吉祥寺駅南口のタイ料理「Khucha(クーチャイ)」で昼食。
P1110010 (2).JPG
ムーパッキン(豚肉の炒め物+ライス、980円+税)。
オーナーの息子さん、数カ月見ないうちにまた大きくなり、走り回る様子もしっかりしてきた。
でも、このくらいの時期は事故に気をつけないと・・・。
(続く)

7月16日(水)今日の古代史(平安京・施薬院木簡) [お仕事(古代史)]

7月16日(水)  晴れ   東京   32.3度  湿度66%(15時)
8時20分、起床。
朝食は、ショコラクリームホーンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ
9時55分、家を出る。
今日も真夏の日差しで、暑くなりそう。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
久しぶりに考古学&木簡の話題
平安京・施薬院木簡について。
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施薬院・悲田院、初の木簡 窮民救済の活動記す
平安京で路頭に迷った病人や孤児らの救済施設「施薬(せやく)院」「悲田(ひでん)院」の名が記された平安前期(9世紀前半)の木簡が、文献上で施設があったとされる付近の京都市南区の平安京跡(左京九条三坊十町)から見つかった。平安時代の両施設に関して記述された木簡が出土するのは初めて。諸国から集められた薬などの荷札の他、「死亡報告書」とも言える木簡もあり、平安時代の困窮した市民の救済活動を表す史料だ。京都市埋蔵文化財研究所が2日、発表した。【藤田文亮】

木簡が出土した場所は、JR京都駅の南約300メートル。鎌倉時代の「九条家文書」によると、施薬院関連施設とみられる「御倉」跡地で、約120メートル南西に施薬院があったとされる。庭園の池の一部とみられる遺構が確認され、池の堆積(たいせき)物から木簡が土器とともに見つかった。

出土した平安前期の木簡は17点で、このうち4点が荷札とみられる。関東地方から薬の原料のサンショウが当時の1斗(現在の約7・2リットル)届けられたことを示す「武蔵国施薬院蜀椒壹斗」と書かれたものの他、6種類の生薬を調合した丸薬「六物□□丸」(「□」は判読不能)、食料や財源としての米が香川県から運ばれたことを示す「讃支白米五斗宮道□□」などの記述が確認された。

また、815(弘仁6)年3月10日の日付のある木簡には、2月4日に施薬院に来た「大伴□□」という37歳とみられる男性と「土師浄女」という56歳の女性が死亡したことが記されていた。木簡の上部には穴が開けられており、とじて保管する「死亡報告書」の意味合いを持つ木簡だったことがうかがえる。悲田院が上部組織の施薬院に塩を求めたとみられる木簡もあった。
『毎日新聞(大阪)』 2014年07月03日 朝刊
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施薬院(「せやくいん」、中世の読みは「せ」を読まず「やくいん」)は、奈良時代に設置された庶民救済施設。
天平2年(730年)、光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を無料で貧民に施し、時には東大寺正倉院所蔵の人参や桂心など高価な薬草も供された。
平安京への遷都後、施薬院は五条室町近くに移されたらしく(典拠要確認)、嵯峨天皇の弘仁2年(811)2月5日には、山城国乙訓郡に施薬院の薬園1町が設けられた(『日本後紀』)。
天長2年(825)11月2日には、別当、院使、判官、主典、医師の各1名を置く職制が定められた(『類聚国史』巻107施薬院)。
『類聚三代格』所収の寛平8年(896)閏正月17日付太政官符には、左右の看督長と近衛が10日ごとに施薬院と東西悲田院の病人と孤子の人数の増減と安否を巡検することを命じている。
施薬院には病人を収容し、預と雑使が治療にあたり、東西悲田院は孤子を収容して預・雑使、さらに乳母・養母が視養し、院司が預以下を指揮監督していたことが記されている。
しかし、平安時代の施薬院の実態は史料が乏しく、実態はわかっていなかった。

今回の施薬院関係の木簡が発見されたのは、京都駅の真南約300mの地点で、平安京の条坊では左京九条三坊十町になる。
左京九条四坊は賀茂川の流路が入っていたので、実質的に平安京の南東隅に近い場所。
鎌倉時代の「九条家文書」によると、施薬院の「御倉」があった場所で、池の堆積土中から木簡17点が発見された。
平安京条坊図 (2).jpg
↑ 平安京条坊図。赤が左京九条三坊十町。
施薬院木簡4.jpg
↑ 発掘区の場所。
施薬院木簡5 .jpg
↑ 発掘区の詳細図。
主な木簡は3点。
施薬院木簡1.jpg
↑ 完形の付札木簡。
「武蔵国施薬院蜀椒壹斗」と記され、武蔵国から施薬院に運ばれた蜀椒(山椒)壹斗に付けられていた荷札。
施薬院木簡2.jpg
↑ 帳簿木簡。表には月4日に施薬院に来た「大伴(某)」という37歳?の男性と「土師浄女」という56歳の女性が死亡したことが記され、裏には「薬院」に仕えて「田作」をしていた「客作児」4人が死亡したことが記され、弘仁6年(815)3月日の日付がある。
木簡には、綴じ穴があるので紐で連ねて、死亡人帳簿として使ったらしい。
施薬院木簡3.jpg
「悲田院」「解申」とある。「解」は下部の官司が上部の官司に申し上げる上申文書の書式なので、悲田院が施薬院の被官であることがわかる。
塩の請求をした木簡と思われる。

これらの木簡から、平安時代初期の平安京で病人や孤児を収容して療養させる福祉施設が一定の機能を持っていたことが判る。
しかし、京内の病人や孤児をすべて収容するだけの規模だったとは思えない。
どれほどの実質性をもっていたのか、もう少し史料(木簡)が出てきて欲しい。

残りの時間、『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)12月~7歳正月条の講読。
12時、終了。
(続く)



6月4日(水)大皇太后宮子の崩御記事 [お仕事(古代史)]

6月4日(水)   晴れ   東京  29.4度  湿度58%(15時)
8時、起床。
朝食は、グレープフルーツデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ
10時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)7~9月条の講読。
藤原不比等の娘、文武天皇の夫人、聖武天皇の母である藤原宮子の崩御記事など。
宮子の処遇については、聖武天皇の即位後の神亀元年(724)に称号問題が起こる。
聖武は当初「大夫人」と称することを命じたが、太政官筆頭の左大臣長屋王から、律令(公式令)では「皇太夫人」となっていることを指摘され、結局、先勅を撤回して、文(文字言語)には「皇太夫人」、語(音声言語)には「大御祖(おおみおや)」と呼ぶことを定めた。
「皇太夫人」の宮子には中宮職が付せられたが、位階(正一位)を持っている点で身分はあくまでも臣下であった。
藤原氏出身で皇族ではない宮子は「皇太后」にはなれなかったのだ。
その状態は、聖武天皇が譲位するまで変わらなかった。

問題は、天平勝宝元年4月に孝謙天皇が即位した時点で、祖母である宮子をどのように処遇したかである。
今までの延長からすると、「皇太夫人」から「大皇太夫人」になるはずだ。
ところが『続日本紀』天平勝宝6年7月19日の宮子の死亡記事は「大皇太后、中宮に崩ず」になっている。
このことから、孝謙天皇の即位後に宮子は、「皇太夫人」から「大皇太后」になったと考えられる。
「大皇太后」となれば、天皇・上皇・皇后・皇太后と同じで、臣下の身分ではない。

なぜ、聖武天皇にできなかったことを孝謙天皇はできたのだろう。
それは、同じ藤原氏出身の安宿媛が、皇后から皇太后になっていたからだ、
その先例があったからこそ、宮子を大皇太后にできたのだと思う。
あるいは、宮子を大皇太后に処遇したのは孫の孝謙天皇ではなく、妹の光明皇太后の意思だったかもしれない。
藤原氏出身の「后」としては、一般に聖武天皇の皇后藤原光明子が最初で、次が桓武天皇の皇后藤原乙牟漏とされるが、厳密に言えば、その間に藤原宮子が入ることになる。

12時、終了。

昼食は、久しぶりに回転寿司
学芸大学駅に移動して、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理と、少しだけ休息。
(続く)

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