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性社会史研究(遊廓・赤線・街娼) ブログトップ
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「新宿遊廓」の廓内道路 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月4日(水)

すごく久しぶりに夜の新宿二丁目に。
待ち合わせ時間まで少しあったので、フィールドワーク。
「仲通り」交差点(南から)。
IMG_1756(2).jpg
交差点の向こう左側(北西側)が戦前の「新宿遊廓」(1922~1945年)で、現在の「ゲイタウン」の中核部。

「新千鳥街」の南側の路地。
IMG_1757 (2).JPG
この路地は「新宿遊廓」の廓内道路の遺跡
「新千鳥街」の場所には、「玲岡楼」という妓楼があった。

九州男」がある路地。
IMG_1758 (2).JPG
この道路も「新宿遊廓」の廓内道路の遺跡。
「九州男」のある場所には、「三好家」という妓楼があった。

右の道路は「仲通り」からY字形に分岐して「靖国通り」に出る道。
IMG_1759 (2).JPG
この道路が「新宿遊廓」の北東の境界線だった。
街灯がついているビルのあたりに、遊廓の守り神の「三社稲荷神社」があった。
左側、真っ直ぐ延びる道は「新宿遊廓」の東西のメイン・ストリートに相当する。

「ビッグス新宿ビル」の裏側(東側)の道。
IMG_1760 (2).JPG
これも「新宿遊廓」の廓内道路の遺跡。
2~4枚目の3本の東西道路と接続する。

ということで、現在の「ゲイタウン」には戦前の「新宿遊廓」時代の地割が良く残っている。

1969年「赤線」廃止10年後の新宿二丁目 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

9月20日(火)

1969年「赤線」廃止10年後の新宿二丁目のルポルタージュに、こんな記述を発見。

「新宿駅前の角筈発の都電は三光町をすぎたところで右へカーブする。カーブした都電の左側が新宿二丁目、元の赤線地帯である。電車道から眺めると、表戸を閉じた暗い家があったり、家を取りこわした跡が空地になっていたりで、その間に、トルコ風呂や小料理屋のネオンが、あっちにぽつん、こっちにぽつんとまたたいている。人の出盛る時間なのに人通りもない。私は小料理屋と空地の間からかつての赤線地帯へはいってみた。大きなゴルフ練習場ができている。電車道から眺めたときと同じように、戸を閉めた暗い家々の間に、飲み屋、旅館、トルコ風呂、ヌードスタジオなどがポツン、ポツンとある。同じ新宿でも、区役所通りと花園神社の間に拡がる元青線地帯は軒並みにネオンが輝いているのにくらべて、なんというさびれようだろう。」
(池田みち子「赤線の灯が消えて10年」『週刊サンケイ1968年3月4日号』)

「電車道」は現在の「御苑大通り」のこと。
「大きなゴルフ練習場」は後に「ビッグス新宿ビル」になる。
「区役所通りと花園神社の間に拡がる元青線地帯」は言うまでもなく、現在の「ゴールデン街・花園街」地区。

「赤線」廃止(1958年)後、10年にして寂れ果て家賃が下落した新宿二丁目・旧赤線エリアに、1970年代になってどっとゲイバーが進出して「ゲイタウン」が形成されていくという私の見立て(*)は、間違っていないようだ。

* 三橋順子「東京・新宿の『青線』について―戦後における『盛り場』の再編と関連して」
(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社 2015年3月)

昭和33年3月31日「赤線最後の日」の虚構 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

9月8日(木)
少し年配の男性なら「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(白鳥信一監督、1974年、日活)という映画をご存知かもしれない。
映画「赤線最後の日」(1974).jpg
明日から「売春防止法」が完全施行される1958年(昭和33)3月31日、最後の夜の新宿2丁目「赤線」(黙認買売春地区)を舞台に、最後まで「赤線」にとどまった3人の女の姿を描いた作品。

通い詰める学生をやさしく抱きしめる女(ひとみ)に宮下順子、次から次に客を上げて無感動に身体を開く女(ヨーコ)に芹明香、結婚を前にした童貞男に女を教える女(康子)に中島葵。そして、食事を抜いてまでひとみに通い詰める学生に風間杜夫という配役。

「赤線」廃止16年後の作品、しかも「ロマンポルノ」という低予算映画にもかかわらず、洋風のホールをもつ「赤線」の特徴的なカフェー建築や、性行為の後、女たちが使用する「洗滌器」など、かなり丁寧に再現されている。

法律が施行される4月1日0時の直前に、客と従業婦が唄う「蛍の光」が「赤線」地区に流れるシーンは、消えゆく「赤線」の挽歌として多くの男たちの心に残った。

しかし、野暮を承知で言えば、これは歴史的事実ではない。なぜなら新宿二丁目「赤線」は、警察の指導と組合の申し合わせで、完全施行の2カ月前の1月31日で営業を終えているからだ。

新宿、品川(1月31日)、武蔵新田(2月25日)、立川錦町、同羽衣町(2月26日)、新吉原、洲崎、千住、鳩の街、玉の井、亀戸、立石、亀有、新小岩、東京パレス、八王子(2月28日)といった具合に、東京の「赤線」はすべて1カ月前の2月28日までに廃業している。
以後の営業はすべてモグリで摘発の対象になっている。

つまり、東京の「赤線最後の日」は3月31日ではなく2月28日なのだ。

このことは、夕刊紙『内外タイムス』が3月2日号(1日発行)の紙面に「赤線の灯ついに消ゆ」と大見出しを打っていることからわかる。
『内外タイムス』19580302.JPG

『内外タイムス』の記者は、東京の「赤線」最後の日である2月28日の夜、新吉原、洲崎、鳩の街、玉の井を取材しているが、「11時すぎにはどこも客足がばったり途絶え、最後の歓楽の夢覚めた遊客を迎えにくるタクシーのライトと、ここだけは消し残った交番の赤い灯がわびしく光っていた」と記すのみで「蛍の光」の話は出てこない。

以後、3月中の記事はすべて「赤線」廃止後という設定で書かれている。

3月31日の夜まで新宿の「赤線」が営業していたというのは、まったくのフィクションである。
にもかかわらず、こうした映像化がされたのは「赤線」廃止16年後という時の流れのなせる業だろう。
そして、今度はこの映画が本になって「蛍の光」の話のような都市伝説が生まれていった。


「性慾研究会」の報告レジュメ完成 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

9月1日(木)

一昨日から取り掛かっている来週土曜日(10日)の「性慾研究会」の報告レジュメ「(資料紹介)新吉原遊廓を描いた風俗画絵葉書」が完成。
絵をたくさん入れてA4版12枚(4500字)。
(3)きぬぎぬ(9).jpg
いろいろ考証して、描かれた時期を明治39年(1906)以後、明治44年(1911)以前と推定。

それにしても、明治末期の妓楼の洗面所に、シャワーがあったって、すごいと思いません?
(3)きぬぎぬ (6).jpg

休む間もなく、レジュメ作り [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月30日(火)

第2章を書き上げた後、休む間もなく、再来週土曜日(10日)の「性慾研究会」の報告レジュメ作りに取り掛かる。
「(資料紹介) 新吉原遊廓を描いた風俗画絵葉書」
(1)はりみせ(1).jpg

ほんとうは、そんなことより、自著の執筆に専念していたいのだが、報告希望者が少ない(今のところ1人)ので、私がでっち上げの報告で穴埋めするしかない。

どこか、遊びに生きたいよ~ぉ。

新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」彩色絵葉書、注記無しの3枚の考証 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月27(土)

訳あって昨年から集めている大正3年(1914)の新吉原遊廓の「花魁道中」の絵葉書、少し前に彩色絵葉書を3枚入手した。
彩色が丁寧で鮮やかで、技術的にも状態的にも、なかなか良いレベル(その割には安く落札できた)。
ただし、彩色(色の再現)が信頼できるかというと、それはまた別問題。
とはいえ、この3枚は、あまり不自然な感じはしない。

残念なのは、まったく注記がなく、写っている花魁が何楼の誰だか、このままではわからないこと。
そこで、簡単に考証して、花魁の所属と名前を明らかにしてみたい。

(1枚目)→ 稲本楼・小紫花魁と判明
新吉原花魁道中(稲本楼・小紫)3C(2).jpg
この斜め後姿の写真、記憶がある。
新吉原花魁道中(稲本楼・小紫)2C(2).jpg
森田一朗編『(明治フラッシュバック2)遊廓』(筑摩書房 1998年)に掲載されているNo40の写真。
ん?左右反転。。
どちらかが裏焼きであると思われるが、同じ写真である。
ただ、この画像も注記がなく、誰だかわからない。
禿(かむろ)は稲本楼(が雇った)の子なのだが・・・。

で、さらに探すと、「Old Photo Library」のコレクションにこの画像があった。
新吉原花魁道中(稲本楼・小紫)2.jpg
モノクロだが、私が入手した写真と同じ構図だ。
そして、ありがたいことに「新吉原 稲本楼 小紫」と注記があり、花魁の名前が判明した。

ちなみに、どちらが裏焼き?の件だが、多数決で・・・というのはあんまりなので、少し理屈をつけよう。
一般に右足が効き足の人が多いので、立ち姿では軸になる右足が少し引いて、遊び足の左足を軽く踏み出すポースになることが多い。
そういう傾向を踏まえると、最初の画像が、それに合致する。
ということで、私の所蔵の方が正画像で、『遊廓』所収の方が裏焼きの可能性が高いと思う。

(2枚目)→ 大文字楼・歌川花魁と判明
新吉原花魁道中(大文字楼・歌川後姿)3C(2).jpg
これも後姿、しかも真後ろ。
この禿の装いは、大文字楼のはずだが・・・。
これも「Old Photo Library」のコレクションに、類似のモノクロ画像があった。
新吉原花魁道中(大文字楼・歌川後姿)2.jpg
またもや左右反転だが、同じ画像だと思う。
注記は「新吉原 大文字楼 歌川」で、花魁の名前がわかった。

どちらが裏焼きかという問題だが、立ち姿の花魁は、前で大きく結んだ帯を左手で抱くのが一般的(それにともない、打掛の左裾が少し上がる)。
そう考えると、彩色画像の方が自然に見える。

(3枚目)→ 大文字楼・大巻花魁と判明
新吉原花魁道中(大文字楼・大巻)7C(2).jpg
スラリと並んだ花魁道中の一行。
大正3年の復興・花魁道中のメンバー構成がよくわかる絵葉書。

これは簡単で、私の所蔵絵葉書の中に、同じ構図のモノクロ画像がある。
新吉原花魁道中(大文字楼・大巻)7(2).jpg
注記は「新吉原 大文字楼 大巻」で、花魁の名前が判明。

ということで、3枚とも、あまり手間取らず、所属の楼名・花魁名がわかった。
収集が、かなり煮詰まってきた気がする。
もう、まったく未知の写真はそれほどないのではないだろうか?

(参照)
2015年2月11日「大正復興「新吉原遊廓・花魁道中」絵葉書14枚を落札」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-02-12-2
2015年5月3日「大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書から」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-05-03-3
2015年6月13日「大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-13-3
2015年10月11日「遺伝学者 R. B. Goldschmidtの自叙伝に大正3年新吉原遊廓「花魁道中」の写真」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12-3
2016年1月18日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-01-18-2 
2016年2月8日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書さらに2枚」 
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-08
2016年5月23日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書、注記無しの1枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-05-23-3

新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書、注記無しの1枚  [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月23日(月)

訳あって昨年から集めている大正3年(1914)の新吉原遊廓の「花魁道中」の絵葉書を、少し前にまた1枚入手したので紹介。
新吉原花魁道中(大文字楼・不詳)4(2)大巻?.jpg
残念なことに、楼名・花魁名の記載が無い。
ただ、禿(かむろ)の特徴的な髪飾り、男衆・遣り手さん、花魁の衣装、そして傘についている紋などから、江戸一丁目の「大文字楼」であることがわかる。

問題は、「大文字楼」の誰かということ。
大正3年の「花魁道中」復興イベントに参加した「角海老楼」「稲本楼」「大文字楼」の当時の新吉原の三大楼の内で、「大文字楼」はいちばんたくさんの花魁が「道中」している(在籍していた娼妓全員が参加した可能性がある)。
現在、私が確認しているだけで、歌川、大巻、右近、操、若柳、紫君、花扇、都、柏木?の9人を数える。

その内の誰かである可能性が高いのだが(あるいは未知の人かも)、花魁の白塗りの顔はみな似たように見えてしまい、なかなか判別が難しい。
それでも、顔の輪郭や髪の生え際に注目すると、「この人ではないな」という推測はつく。
で、いろいろ比べた結果、この整った卵型の美形は「大巻」花魁ではないか?と思う。
新吉原花魁道中(大文字楼・不詳)4(3)大巻?.jpg
新吉原花魁道中(大文字楼・大巻)7(3).jpg
(上)花魁名不詳 (下)「大文字楼」大巻花魁

「大文字楼」の大巻花魁(角海老楼にも同名の花魁がいる)は、人気だったらしく、絵葉書の残存数も多いので、たぶんそうだろう。

皆さんのご意見も聞かせてください。

(参照)
2015年2月11日「大正復興「新吉原遊廓・花魁道中」絵葉書14枚を落札」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-02-12-2
2015年5月3日「大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書から」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-05-03-3
2015年6月13日「大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-13-3
2015年10月11日「遺伝学者 R. B. Goldschmidtの自叙伝に大正3年新吉原遊廓「花魁道中」の写真
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12-3
2016年1月18日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-01-18-2 
2016年2月8日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書さらに2枚」 
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-08

1955年「赤線」新吉原・京二通りの夜景 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

2月8日(月)
「漫画タイム」(『りべらる』10巻10号、1955年8月).jpg
『りべらる増刊 漫画タイム』(『りべらる』10巻10号、白羊書房、1955年8月1日発行)。
先週の水曜日、何気なく立ち寄った古書店で見つけて購入した(500円)。

漫画雑誌の『漫画タイム』が、カストリ雑誌以来の風俗雑誌の老舗『りべらる』の増刊として、1955年(昭和30)8月に刊行されたことがわかる。

しかし、私の購入理由は、そうした書誌的な興味ではなく、表紙から裏表紙に続く写真に惹かれたから。
一見して「赤線」時代の「新吉原」京二通りの夜景だと思ったから。

傷むのを覚悟で開いて、表紙と裏表紙を連続させてスキャン
「赤線」新吉原8(2).jpg

まず、目につくのは、左側の「日光」という店の看板。
「赤線」新吉原8 (2).jpg

その右手の看板は、画像処理したら「サロン ときわ」と読めた。
「赤線」新吉原8 (3).jpg

道の向かい側(右側)には「正金」という店の看板。
看板の下には、客待ちの女給さんが2、3人。
「赤線」新吉原8 (4).jpg

そこで、「赤線」時代の「新吉原」京二通りの店舗地図調べると・・・。
「赤線」新吉原・京二通(2).jpg
やはり「京二通り」の南東側に「日光」がみつかった。
その隣には「ときわ」、向かい側に「正金」が確認できる。
この写真は、①の位置から、→の方向を写したものであることがわかる。

なぜ、私が「赤線」新吉原・京二通りの夜景かと気づいたかというと、似たような画像を知っていたから。
「赤線」新吉原3(2).jpg
↑「赤線」全盛期(1951年)、ネオンきらめく「新吉原」京二通り。
「小柳」「栃木」「助六」「大河」などの屋号が確認できる。
(広岡敬一『昭和色街美人帖―私の<赤線時代>―』自由国民社 2001年)

こちらは②の位置から、←方向を写している。
つまり、①の夜景とは、ほぼ同じエリアを逆方向から写している。
撮影時期は②が1951年の「赤線」全盛期であるのに対し、①は1955年で「赤線」後期。

もう1枚、夜景ではなく昼景だが、こんな写真もある。
「赤線」新吉原4.jpg
「小柳」「栃木」の看板が見えるが、②よりさらに外側から撮影されたもの。
注目は「赤線」区域の境界に立てられたアーケード。
門柱の上に「京二 〇〇」のネオン。

そこで、最初の写真の中央付近に注目すると・・・、
「赤線」新吉原8 (5).jpg
アーケードが写っている。
残念ながら、露出オーバーでネオンの文字は確認できないが。

さて、この「漫画タイム」、漫画雑誌なので、表紙にも漫画が描かれている。
「赤線」新吉原8 (6).jpg
男がもつプラカードの「売春禁止法案」とは、第22国会(1955年3月18日~7月30日)に、売春の禁止と「醜業婦」の処罰を目的に議員立法として提出された法案だが、反対多数で否決された。

「売春防止法」の成立は、翌年の第24国会(1955年12月20日~ 1956年6月3日)を待たなければならない(5月24日成立)。

ということで、何か新しい事実が判ったというわけではないが、「新吉原」赤線時代後期の夜景写真が1枚、資料に加わった。

新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書さらに2枚  [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

2月8日(月)

訳あって昨年から集めている大正3年(1914)の新吉原遊廓の「花魁道中」の絵葉書を、また2枚入手したので紹介。

角海老楼・彌生花魁の道中姿と、同楼の積夜具の写真
彩色絵葉書の割には、安く入手できた(1100円+1000円)。

大正3年4月に新吉原遊廓で行われた「花魁道中」は、明治44年(1911)4月の「吉原大火」で灰燼に帰した新吉原遊廓が復興を世間に印象づけるために企画された一大イベント。
同年の大正天皇御大典(即位礼)を記念する「東京大正博覧会」(大正3年3月20日開会:東京府主催、主会場:上野公園)に合わせて、明治中期に途切れていた「花魁道中」を復活し、多くの見物人を集めた。
新吉原のメインストリート「仲の町通り」を「道中」する花魁は、当時の新吉原のビッグ3、角海老楼(京町一丁目)、稲本楼(角町)、大文字楼(江戸町一丁目)が出した。

新吉原花魁道中(角海老楼・彌生)(2).jpg
↑ 角海老楼・彌生花魁の道中姿。
今まで、道中姿が未確認だった花魁。
これで、現在確認されている「道中」をした花魁の人数は、角海老楼で8人、3楼合わせて23人になった。

角海老楼 ----紫、白縫、薄雲、左々浪、大巻、小式部、ビューティー、彌生(8人)
稲本楼 ----小紫、小太夫、福寿、若妙、二葉 染之助       (6人)
大文字楼 ----歌川、大巻、右近、操、若柳、紫君、花扇、都、柏木?(9人)

彌生花魁、「道中」があった翌年の大正4年(1915)の「新吉原細見」の角海老楼の項に名が見える。
新吉原細見(大正4=1915) (2).jpg
序列は24人中8位、中の上といったところで、必ずしも高くない。
赤でマークしてあるのが「道中」をしたことが確認できる花魁だが、ずでに指摘されているとおり、必ずしも序列で選ばれているのではなさそうだ。
やはり、「道中」の適性(体力、背の高さなど)が加味されていると思う。

もう1枚は、角海老楼の積夜具。
新吉原花魁道中(角海老楼・積夜具)2(2).jpg
↑ 左から、弥生、紫、薄雲の積み夜具。
前に小式部の提灯と高下駄。

積夜具は、江戸時代の遊廓で、花魁と客が「馴染み」になったときに、客が花魁に贈る夜具一式。
「馴染み」になると廓内では「夫婦(めおと)」扱いになるので、専用の夜具を使うようになる。
贈られた夜具を人目につく所(妓楼の1階の広間とか)に積んで、花魁の名を書いた札をつけて、お披露目をする。
以後、客が花魁と「お床入り」する際には、この夜具が用いられる(男衆が布団部屋から運んでくる)。
もちろん、そんなことができるのは、最高級の遊女だけですが。

見栄っ張りの江戸のお大尽から馴染の花魁へのプレゼントなので、敷布団は綿が厚く入った三つ重ねで、豪華なものがほとんどだった。

ただ、大正期の新吉原で、そうした習俗が生きていたとは思えないので、今回の復興イベントに合わせて用意された形式的なものか。
積夜具の写真は、これの絵葉書以外にほとんどなく、珍しい。

モノクロの絵葉書は、以前から所蔵していたが、問題は、彩色絵葉書の色がどれだけ信頼できるか?ということ。
写真師が現地で色味をメモして、彩色絵師にちゃんと伝えていたら、ある程度は、信頼できると思うが、はたしてどうだろう?
正直、かなり怪しいと思った方がいいように思う。

(参照)
2015年2月11日「大正復興「新吉原遊廓・花魁道中」絵葉書14枚を落札」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-02-12-2
2015年5月3日「大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書から」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-05-03-3
2015年6月13日「大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-13-3
2015年10月11日「遺伝学者 R. B. Goldschmidtの自叙伝に大正3年新吉原遊廓「花魁道中」の写真」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12-3
2016年1月18日「新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-01-18-2 

新収集・大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月18日(日)

訳あって昨年から集めている大正3年(1914)の新吉原遊廓の「花魁道中」の絵葉書を新たに2枚入手したので紹介。
新吉原花魁道中(稲本楼・染之助)2(2).jpg
↑ 稲本楼・染之助花魁の道中後姿。
結髪や衣装の後姿、傘の華麗な模様、それを持つ「傘差し」の独特の握りがわかる。

新吉原花魁道中(大文字楼・都)1-2(2).jpg
↑ 大文字楼・都花魁の道中姿。
下駄の形状や高さがよくわかる。

大正3年4月に新吉原遊廓で行われた「花魁道中」は、明治44年(1911)4月の「吉原大火」で灰燼に帰した新吉原遊廓が復興を世間に印象づけるために企画された一大イベント
同年の大正天皇御大典(即位礼)を記念する「東京大正博覧会」(大正3年3月20日開会:東京府主催、主会場:上野公園)に合わせて、明治中期に途切れていた「花魁道中」を復活し、多くの見物人を集めた。

新吉原のメインストリート「仲の町通り」を「道中」する花魁は、当時の新吉原のビッグ3、角海老楼(京町一丁目)、稲本楼(角町)、大文字楼(江戸町一丁目)が出した。
その人数は、現在、私が確認しているところでは、3楼合わせて23人に及び、かなり大規模なイベントだったことが明らかになってきた。

角海老楼 ----紫、白縫、薄雲、左々浪、大巻、小式部、ビューティー、彌生(8人)
稲本楼 ----小紫、小太夫、福寿、若妙、二葉 染之助       (6人)
大文字楼 ----歌川、大巻、右近、操、若柳、紫君、花扇、都、柏木?(9人)
 
(参照)
2015年2月11日「大正復興「新吉原遊廓・花魁道中」絵葉書14枚を落札」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-02-12-2
2015年5月3日「大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書から」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-05-03-3
2015年6月13日「大正3年、新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書2枚」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-13-3
2015年10月11日「遺伝学者 R. B. Goldschmidtの自叙伝に大正3年新吉原遊廓「花魁道中」の写真
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12-3
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