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小池美喜さん(筆名:成子素人)の手記をアップ [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

2月17日(金)

1960~70年代の日本のアマチュア女装世界をリードした女装秘密結社「富貴クラブ」の会員だった小池美喜さん(筆名:成子素人)の手記をアップしました。

成子素人「もう一人の私 のこと」(前編)
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18
成子素人「もう一人の私 のこと」(後編)
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18-1

28000字を越える長文の手記で、2000年秋頃に執筆され、2001年春に私に託されたものです。
2005年頃にはテキスト化を終えていましたが、様々な事情で公開が遅れました。

謎の多い「富貴クラブ」の実像を物語る一級資料として、また20世紀後半を生きた一人の女装者の半生記として、さらには同時代の風俗研究資料として、とても貴重なものです。

読み物として興味をもっていただくとともに、研究資料として活用していただけたら幸いに思います。
詳しい解説は下記をご覧ください。

三橋順子「(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18-2

メディアにおける性的少数者への差別(メモ) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月28日(土)

男性同性愛者がテレビに出演する場合、期待されていたのは「一般人とは異なる特有の感性・物の見方・話のおもしろさ」だった。
そこに「笑い」の要素はあったが、それがメインではなかった。
美輪先生、青江のママ、カルーセル麻紀さん、初期のおすぎ&ピーコもそうだった。
時期的には1980年代まで。

それが、男性同性愛者の存在そのものが笑いの対象、さらには露骨に「気持ち悪い」対象に、変化していったのは1990年前後だと思う。
それ以前はそれほど明確ではなかった。
そもそも可視化されていたのは、もっぱら女装のゲイ、もしくはニューハーフ的な人だけで、男性的なゲイは(例外的な人を除き)ほとんど可視化されていなかった。

その転機は、フジテレビ系列の「とんねるずのみなさんのおかげです」(1988年レギュラー化)で石橋貴明が扮した「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」だったと思う。
あの悪意のあるステレオタイプ化は、ほんとうに強烈だった。
保毛尾田保毛男.jpg
現在50歳以上の当事者性のある方は、その衝撃を覚えていると思う。
あれで「きもい」「笑いの対象」としての「ホモ」の視覚的イメージが固まったように思う。

メディアにおける性的少数者への差別は、昔ほどひどいと思っている人がいるが、必ずしもそうではない。
ある時期に、メディアが差別の構造を作り出しているケースもけっこうある。
「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」などはその典型。

「おかま」という言葉も1970年代前半までは、少なくとも一般雑誌(週刊誌・月刊誌)レベルでは、ほとんど使われていない。
使われていても、本来の用法(おかま=肛門をつかってお商売する人=おかま屋=女装男娼)がほとんど。

それが、977~78年頃から、女装する男性だけでなく、女性的な男性同性愛者まで含める形で意味を拡張して、メディアが乱用するようになる。
メディアによって、笑い者、差別する対象として「おかま」という言葉がリニューアルされたと言える。

データで示すと、一般雑誌記事の商業的なトランスジェンダーの呼称を調べると、1971~75年はゲイボーイ80%、「おかま」16%だったのが、1976~80年ではゲイボーイ38%、「おかま」63%とまったく逆転する。
この時期に転機があったのは明らかだ。


戦後世界最初の性別移行手術は日本の可能性大 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月14日(土)

男性から女性への性別移行手術は、1930~31年にデンマーク人画家Einar Mogens Wegener(女性名:Lili Elbe)に対して、ドイツで行われた手術(手術後ほどなく死亡し、実質的には失敗)を除けば、最初の事例は、1950~51年にイギリス空軍中尉Robert Marshall Cowell(女性名:Roberta Elizabeth Marshall Cowell)と考えられていた。

(参照)三橋順子「性転換の社会史(1) -日本における「性転換」概念の形成とその実態、1950~60年代を中心に-」
(矢島正見編『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部 2006年)

今回、改めて調べ直したところ、Cowellの造膣手術が1951年5月15日であることが判明した。

これに対し、日本初の事例である永井明(女性名:永井明子)は、日本医科大学病院で1951年4月頃に造膣手術を完了している(執刀:石井正臣日本医科大学教授)。

残念ながら永井の手術の正確な日付はわからないが、「4月」以降で「春」である。

これによって、永井の造膣手術はCowelの手術よりやや早いか、ほぼ同時で、戦後世界初(成功したものとしては世界初)であった可能性が強くなった。
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(0)Einar Mogens Wegener(女性名:Lili Elbe)
デンマーク人、画家、1882~1931年
Lili Elbe2.jpg
1930年、ベルリンで睾丸摘出手術、次いでドレスデン市立産婦人科診療所でクルト・ヴァルネクロス医師の執刀で陰茎の除去と卵巣の移植手術を受ける。その際に未発達な卵巣様のものが検出されているので、インターセックス体質だった可能性がある。
(移植卵巣は拒絶反応のため手術で摘出)
1931年、子宮移植手術。
手術から程なく死亡(48歳)。
性転換手術としては失敗だった。

(1)永井明(女性名:永井明子)
日本人、病院雑役夫、1924年~?
永井明子(『日本週報』1954年11月5日号).jpg
↑ 永井明子(『日本週報』1954年11月5日号)

T大病院(東京大学病院?)の精神科を訪れて「精神病者」という診断書(精神科では治療不能という証明か?)を取得。
1950年8月、上野の竹内外科病院(竹内篁一郎院長)で精巣と陰茎の除去手術を受ける。
女性ホルモンを投与しながら、髪形や服装を女性に改め、進駐軍関係者のハウスメイド(家政婦)に転じる。
1951年春(4月以降)、日本医科大学付属病院で造膣手術を受ける(執刀は、石川正臣教授)。
その後、戸籍の名前を明から明子へ、続柄を三男から次女に変更。
永井明子2.jpg
↑ 変更された戸籍

(2)Robert Marshall Cowell(女性名:Roberta Elizabeth Marshall Cowell)
イギリス人、イギリス空軍中尉(戦闘機パイロット)、1918~2011年
Roberta Cowell2.jpg
1949年、マイケル・ディロン医師のもとで性転換治療を開始。
女性ホルモンの大量投与を受ける。
1950年、睾丸摘出手術。
1951年5月15日、サー・ハロルド・ギリーズ医師と米国外科医のラルフ・ミラード医師(アメリカの外科医)の執刀で造膣手術。
2011年、死去(93歳)

(3)George William Jorgensen, Jr.(女性名:Christine Jorgensen)
アメリカ人、アメリカ陸軍兵士、1926~1989年
Christine Jorgensen1-3.jpg
1950年8月、デンマーク(コペンハーゲン)のスタテンス分泌液研究所のホルモン部長クリスチャン・ハンブルガー博士の診断を受けて性別移行のための治療プログラムを開始。
10カ月間の女性ホルモン投与を受ける。
1952年2月に形成外科医ダール・イヴェルゼン教授の執刀で性器の女性化手術。
1989年、肺癌で死去(62歳)

トランスジェンダー歌謡の歴史 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月6日(金)

トランスジェンダーの歌謡(歌手)については、2004年に論文「トランスジェンダーと興行-戦後日本を中心に-」(『現代風俗2004 興行』新宿書房 2005年2月)を書いたとき,初期の「性転換者」に歌手になった人が多いことに気づいて以来、気になっていた。
話が前後するが、1990年代後半に私がお手伝いしていた店(新宿歌舞伎町「ジュネ」)は、カラオケ・女装スナック的な店で、スタッフやお客さんに歌上手が多かった。
私も成り行きで唄う機会が多く、そうした自己体験的にも、トランスジェンダーと歌謡には関心をもっていた。
ただ、いろいろ多忙で、なかなかまとめる機会がなかった。
昨夜、Twitterでこの分野に関心がある方(藤嶋隆樹さん)とやりとりした勢いで、まとめてみた。
まだ調べたりないことも多いので、いろいろご教示いただけると、幸いに思う。
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1950年代に男性から女性へ「性転換」した永井明子、吉川香代、椎名敏江は、いずれも転性後に歌手になっている。
永井と椎名(芸名:ジーナ敏江)はシャンソン歌手として舞台に立ち、歌っているステージ写真は残っているが、レコードは出していないと思う(正確に言えば、未確認)。
永井明子『東京タイムズ』19530913)2.jpg
↑ 唄う永井明子(『東京タイムズ』1953年9月13日)
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↑ シャンソン歌手ジーナ敏江の舞台(『100万人のよる』1959年1月号)

「にわか歌手」だった永井と椎名とは異なり、吉川はもともと音楽畑の人だった。
音楽家を目指して国立音楽大学に入学、ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任した。
1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征したが、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立つ。
その後、女性的な体質が表面化し、1954~55年に女性への転性手術を受け、教職を辞して職業歌手に転身。
芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍し、その後は、歌謡教室の教師に転じた。
(参照)三橋順子「日本女装昔話27 男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_27.htm
吉川香代4.jpg
↑ 唄う緑川雅美(掲載誌不明。1957~58年頃)

1960年前半に、「性転換」ダンサーとして人気があった銀座ローズも舞台では歌っていた。
「女の運命」というレコードを「テイチク」から出している。
発売年は1970年と思われるが、全盛期を過ぎていて要確認。
銀座ローズ「女の運命」.jpg
↑ 銀座ローズ「女の運命」(1970年?)

「和製ブルーボーイ」としては銀座ローズの後輩になるカルーセル麻紀は、1968年に「愛してヨコハマ」でレコード・デビューしている。
今のところ、これがトランスジェンダーのレコードの最初である可能性が高い。
カルーセル麻紀「愛してヨコハマ」.jpg
カルーセル麻紀は、その後も1970年代に数枚のレコードを出ている。
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↑ 「夜の花びら」(1974年)
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↑ 「灰皿とって」(1978年)
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↑ 「日本列島日が暮れて…」(1977年)
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↑ 「なりゆきまかせ」(1980年)

1969年には「ブルーボーイ歌手」のキャッチコピーで、ヘレン南がレコード・デビューした。
ヘレン南「女ごころ」.jpg
↑ ヘレン南「女ごころ」
ヘレン南は、晩年、静岡県焼津市の「松風閣」というホテルの専属歌手をしていたが、2009年末に亡くなった。
私が2010年夏にお話をうかがったゴールデン圭子さん(1960年代に「性転換ダンサー」として活躍、晩年は岐阜市柳ケ瀬のスナック「シーラカンス」のママ)の同郷(北海道出身)の友達だった。

ちなみに、「ブルーボーイ」とは1963年にフランス・パリの「カルーゼル」の性転換女性たちが来日公演して話題になったときに、マスメディアがつけた呼称で、「身体を女性化した男性」という意味。
その後、銀座ローズやカルーセル麻紀など、日本人の同じような人を「和製ブルーボーイ」と呼ぶようになった。

ヘレン南とほぼ同時代に女装歌手として話題になったのが橘アンリ。
1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで、週3回、レストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌った。
声はやはり低音だったようだ。
「甘い生活」というレコードを1970年に出している。
橘アンリ「甘い生活」.jpg
↑ 橘アンリ「甘い生活」(1970)。
(参照)三橋順子「日本女装昔話 番外編 5 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_bangai_05.htm
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↑ 唄う橘アンリ(掲載誌不明 1970年4月頃)

1981年4月、大阪のゲイボーイ、ベティ(後に「ベティのマヨネーズ」のママ)が桑田佳祐の作詞作曲で「I Love you はひとりごと」というレコードを出す。
ベティ「I Love you はひとりごと」.jpg
↑ ベティ「I Love you はひとりごと」
そのとき、桑田が考案した「男と女のハーフ」という意味の「ニュー・ハーフ」というキャッチコピーが、「ニューハーフ」の語源になる。

1981年3月にポスター企画「六本木美人」に選ばれ、1981年10月公開の角川映画「蔵の中」に主演し、ニューハーフ・ブームを起こした松原留美子は、アルバム(LP)で「ニューハーフ」(を出し、さらにシングルで「一夜恋」「砂時計」を出している。
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↑ 松原留美子「ニューハーフ」(1981年9月21日)
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↑ 松原留美子「一夜恋」(1981年11月1日)
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↑ 松原留美子「砂時計」(1982年7月21日)
松原のレコードは聴いたことがあるが、すごいハスキーボイスというか、ほとんど男声で、かなり厳しかった。

男性から女性へのトランスジェンダーの場合、一度、声変わりしたら、いくら女性ホルモンを投与しても声は高くならない。
したがって、女性歌手としてやっていくのはかなり辛いものがあり、話題にはなっても、職業的にはなかなか成功し難い。

その点、声帯ポリープを患う前のはるな愛は、きれいな女声で、歌もうまかった。

現在のトランスジェンダー歌手としては、中村中(あたる)が第一人者であることは異論はないだろう。
2006年9月にリリースした「友達の詩」がヒットし、2007年大晦日のNHK紅白歌合戦に戸籍上男性のソロシンガーとしては初めて紅組で出場した。
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↑ 中村中『友達の詩』(2006年9月)
中村中 (2).jpg
男声、女声を超越した迫力ある歌唱は、実に魅力的。

1953年(昭和28)頃の男性同性愛者の出会いの場 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月3日(火)

1953年(昭和28)頃の男性同性愛者の出会いの場

東京 
(1)映画館・劇場
有楽町「日本劇場」地階
新宿「文化劇場」「帝都座階上の名画座」
浅草「東京クラブ」「日本館」

(2)公衆便所
日比谷公園公会堂附近
神田竹橋のたもと
神田K公園
四谷見附近く

(3)男色喫茶
新宿「夜曲」

大阪 
(1)映画館
新世界界隈
道頓堀
 歌舞伎座付近のニュース映画館
九条方面

(2)公園
天王寺公園
中之島公園

(3)男色旅館 6軒ほど
阿倍野区内「さくら」「ますみ」

京都 
(1)映画館
京極「八千代館」

(2)公園
円山公園

関東(東京)は男色喫茶、関西(大阪)は男色旅館という相違(特色)。
京都は、京極の八千代館で出会い円山公園へというコースが定番。
「ハッテン場」という言葉は使われていない。

個々の場所の特定は今後の課題。

文献は、藤井晃「ソドミア風土記ー関東・関西における同性愛者の集合地帯ー」(『臨時増刊 秘蔵版 風俗草紙』、日本特集出版社 1953年12月)

【注記】
東京の「神田K公園」の候補としては、JR神田駅の西にある(旧・司町)の「神田公園」か、駿河台下(明治大学裏)の「錦華公園」か、どちらか。

東京・新宿の「文化劇場」は、新宿3丁目、明治通り東側にあった映画館街にあった映画館(南から、新宿大映、新宿東宝、新宿文化劇場と並んでいた)。
現在の「新宿文化ビル」(新宿区新宿3-13-3)。

大阪・阿倍野区の男色旅館「さくら」は「佐久良」とのこと(鹿野由行氏の教示による)。

京都・「八千代館」は、中京区新京極通四条上ル東入ルにあった映画館。
戦後は成人映画専門で「ピンクの殿堂」と言われた。
明治末期から100年近い歴史を刻んだが、2007年12月29日に閉館した。

男性同性愛の隠語「〇〇専」初例更新 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月3日(火)

1953年(昭和28)の男性同性愛関係の文献に「外専」(外国人相手の男)「老け専」(年配相手の男)という隠語が紹介されている。

従来「〇〇専」の早い用例としては太田典礼編『第三の性』(1957年)に出てくる「老け専」が知られていたが、それより4年早く、初例更新だと思う。

文献は、藤井晃「ソドミア風土記ー関東関西における同性愛者の集合地帯ー」(『臨時増刊 秘蔵版 風俗草紙』、日本特集出版社 1953年12月)

小野善弘『もうひとつの夜』ー1950年代男性同性愛関係書籍の紹介(2)ー [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月1日(日)

小野善弘著『もうひとつの夜』(東京ライフ社、1958年)は、1958年前後の「第一次ゲイブーム」に刊行された小説集。
小野善通『もうひとつの夜』 2(2).jpg
1950年代中頃の東京・新宿歌舞伎町周辺を舞台に、著者と思われる「僕」、恋人の洋児、ゲイバー「ネロ」のマスター、「文化女性」のお竹とお菊などの群像小説。

1950年代なので、新宿二丁目の「ゲイタウン」は影も形もない。
「文化女性」とは、当時の用語で、身体的には男性だけどジェンダー的には女性として暮らしている人。
ちなみに、身体も女性化している人は「人工女性」と言った。

この小説、紆余曲折の末に小説家志望の「僕」と学生の洋児が、横浜の若葉町に喫茶店を開くところで終わる(ハッピー・エンド)。
一方、「文化女性」のお竹とお菊は、どちらも若くして悲惨な最期を遂げる。
トランスジェンダーとしては可哀想で仕方がない。

著者の小野善弘は、この小説集(中編の「もうひとつの夜」と短編の「しっぽ」を収録)があるだけで、今のところ経歴不詳。
どなたか、情報をお持ちの方がいらしたら、ご教示いただきたいと思う
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1 書誌
小野善弘著『もうひとつの夜』
発行所:東京ライフ社(東京都千代田区神田三崎町2番地) 
発行年月:1958(昭和33)年10月
定価:240円
体裁:四六判(B6版)220頁 表紙カバー
序文・跋文:なし
内容:短編小説「しっぽ」、中編小説「もうひとつの夜」」の2篇を収録した小説集
帯:(表)侮辱され罵られながら夜毎強烈に燃える第三の性! あなたの隣にもうひとつの夜がある
  (裏)男でもない、女でもない、もうひとつの性! 男色といわれ、鶏姦といわれ、ゲイといわれた著者が鋭い筆致で、異常な同性愛者の青白い夜を描破した問題の書!

2 著者
・ 経歴不詳。国会図書館NDL-OPACで調べても、この1点のみ。
・ 1958年に30歳と仮定すると、1928年の生まれ。存命なら89歳。

3 内容
・ 4章構成。
・ 主な舞台は1950年代中頃の東京新宿。
・ 作中の「僕」が著者と思われる自伝的小説。
・ 「僕」、恋人の洋児、ゲイバー「ネロ」のマスター、「文化女性」のお竹とお菊などを中心とした群像小説。


日本におけるLGBTの歴史地理的研究 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

12月25日(日)

友人の東優子さんが「いいね」をしている早乙女成妃子さんという方のFace BooKの投稿で知ったのだが、アメリカには「LGBTQにとって歴史的な場所を表示した地図(Places with LGBTQ Heritage)」があるそうな。

https://www.google.com/maps/@41.6232728,-112.8587991,3z/data=!3m1!4b1!4m2!6m1!1szUo4VdCIQUrM.kpjJD0fu37MU

で、「日本版はどんな感じになるやろ」というお尋ねなのだが、たぶんそういう試み(発想)は全然ないと思う。

この手の地図を作るには「歴史地理」研究の成果がベースになるのだが、Tについては私がかなりやっている(つもり)。
論文としては「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷 ―「盛り場」の片隅で―」(『現代風俗学研究』12号 現代風俗研究会 東京の会 2006年3月 P1~15)を10年前に出している。
個別的には、東京における最初の女装バー「湯島」や、新宿女装コミュニティの発祥の地「ふき(梢)」の場所は、正確に把握している。

Lについては、「つっちー」(土屋ゆき)さんに聞けば、新宿二丁目の最初のレズビアンバーの場所はわかると思う。
でも、学術的な研究はない。

問題はGで、そういう関心をもって研究している人が意外と少ない。
古くは伏見憲明さんの「ゲイの考古学」があるが、最近ではやはり石田仁さんの一連の研究だろう。ただ石田さんの歴史地理研究は「ハッテン場」が中心なので、「お店(飲み屋)」はやや手薄な気がする。

東京最初のゲイバー「やなぎ」の正確な場所は、今年、私が突き止めた。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-06-26-1
新宿の初期のゲイバー「夜曲」「イプセン」「アドニス」「ぼんち」、あるいは「千鳥街」にあった2,3のゲイバーなどの正確な場所もわかっている。
でも、1950年代に浅草などにたくさんあった初期ゲイバーのほとんどは、正確な場所が不明なままだ。

もう少し調べてみてもいいが、なかなかそういう気にならないのは、現代のゲイの方が歴史的なことにほとんど関心がないことも影響している。
早い話、需要がないのだ。
「へ~ぇ、そうなんだ!」と喜んでくれる人がいたら、調べる気にもなるのだが・・・。

私は自分が所属するカテゴリーの歴史を知ることは、アイデンティティの根元につながることだと考えるが、それはもう古い考え方なのだろう。


12月4日(日)性別越境者と女性ホルモンの関係  [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

12月4日(日) 曇り  東京  16.0度  湿度69%(15時)10時、起床。
朝食は、新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のカカオ・ド・クレームとコーヒー。
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冬の季節商品なので、久しぶり。

お昼は、長崎五島の手のべうどんで、鶏うどん。
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夕食は、豚肉の生姜焼き。
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長葱の醤油炒め。
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お風呂に入って温まる。

夜中、内分泌系の医学雑誌から依頼された原稿を書き始める。
「性別移行者の歴史と現在」というテーマだが、もう何度も書いているので、あまり書く気になれない。

で、性別越境者と女性ホルモンの関係をたどってみることにした。
と言っても、正規医療ではなくほとんどアンダーグラウンドな世界だから、先行論文皆無というか、まともな資料もない。
でも、こういう世界を知っている人もどんどん少なくなっていくし、自分が見聞きしたことを書き残しておく意味はあるだろうと思う。

書いていて、改めて危ない世界だったと思う。
女性ホルモンを自己注射していたり、ホルモン剤の原末(錠剤として製品化する以前の原料粉末)を製薬会社から持ち出して自分たちでカプセルに詰めて飲んでいたり・・・。

疲れた顔でカウンターに座ると、スタッフの1人が「あら元気ないわね、これでも飲んで元気つけなさい」と、ビタミン剤と女性ホルモン剤を出してくれる女装スナックもあった。
カウンターの上の棚に「彼女」専用の薬籠があり、かなりの量の薬剤がストックされていた。
実は「彼女」正規の資格の薬剤師。「当店では薬剤師の指導のもとにお薬を提供しています」という形だった。

店のお客さんには女装者やニューハーフが大好きなお医者さんもいる。そういう先生には「今度、お注射お願いしたいのですけど。プライベートで・・・」と色仕掛けでお願いする。
そうすると、喜んで注射器と自分のペニスの両方で「注射」してくれる。

明らかな薬事法、医師法違反の数々だが、もう、みんな時効だから、書いてもいいだろう。

まだ、インターネットが普及する以前だから、女性ホルモンについての正しい知識も普及していない。
単純にたくさん投与すれば、それだけ効くと信じている人が多かった。

当時(1990年代半ば)、新宿周辺には、簡単に女性ホルモンを注射してくれる医院が3軒あった。
西新宿の病院はプロのニューハーフ専用だったから、女装者は、新宿1丁目のH病院と、大久保のO病院のどちらかに行く。注射の頻度は1週間に1回が一般的だった。

ところが、ある女装者は、両方の病院を掛け持ちしていた。週1回×2だ。当然、オーバードーズ(過剰投与)で心身に悪影響が出る。土曜日の午後、女装喫茶店のカウンターにうつ伏している「彼女」の姿を思い出す。優秀なプログラマーだったが慢性的な倦怠感と精神の不安定化で仕事が続けられなくなり、やがて新宿の街から消えていった。

こうした女性ホルモンの濫用状態は、当然、いろいろなトラブルをもたらす。
身体の女性化による家庭崩壊や精神の不安定化による失業に止まらず、眼底血栓で危うく失明仕掛けたニューハーフ・パブのママ、心筋梗塞であの世に行きかけたベテラン女装者、いきなりの大量投与で薬物性の劇症肝炎を発症して死線をさまよった若手女装者etc.

幸いなことに自分の知人・友人では、乱用による本当の死人は出ていないが、比喩的にはまさに死屍累々なのだ。

就寝、5時半。

日本近代における男色文化の変遷(メモ) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月20日(日)

三橋による男色文化の4類型。
Ⅰ 年齢階梯制を伴い、女装も伴う男色文化
Ⅱ 年齢階梯制を伴い、女装を伴わない男色文化
Ⅲ 年齢階梯制を伴わず、女装を伴う男色文化
Ⅳ 年齢階梯制を伴わず、女装も伴わない男色文化

(1)明治5~6年(1872~73)に制定された「違式詿違条例」によって女装が禁じられたことで、江戸庶民的が愛好した、年齢階梯制とジェンダーの移行(女装)を伴う男色文化(Ⅰ類型)は衰退する。

(2)それに代わって、薩摩藩などで盛んに行われていた、年齢階梯制を伴うがジェンダーの移行は伴わない男色文化(Ⅱ類型)が、東京に持ち込まれ、さらに学校教育を通じて全国に広まっていく。
その全盛期は、明治10~30年代(1877~1906)である。

(3)大正期(1912~1925)になると、西欧の精神医学概念(用語)である「同性愛」が輸入され、徐々に「男色」と置き変えられていく。
しかし、実態的には、(旧制)中学・高校を中心に年齢階梯制を伴うがジェンダーの移行は伴わない男色文化(Ⅱ類型)が継続していた。
その状況は、昭和戦後混乱期まで続く。

(4)昭和戦前期(1926~1936)と昭和戦後混乱期(1946~1951)には、「女装男娼」という形で年齢階梯制を伴わず、女装を伴う男色文化(Ⅲ類型)が顕在化する。

(5)昭和戦後期(1952~1960)になると、「ゲイ(Gay)」「ソドミア(Sodomia)」という概念が入ってくる。
ここでいう「ゲイ(Gay)」のほとんどが少年・青年であり、ゆえに「ゲイ・ボーイ(Gay Boy)」と呼ばれ、年齢階梯制がなお機能していた。
ゲイボーイが女装しない場合はⅡ類型、女装する場合はⅠ類型になるが、当初は両類型が同じ店舗(ゲイ・バー)に同居していた。その後、徐々に分離していく。
これに対して「ソドミア(Sodomia)」は、年齢階梯制の要素は希薄で、年齢階梯制も女装も伴わない大人の男性同士の性愛が初めて顕在化する(Ⅳ類型)。

(6)昭和高度経済成長期(1961~1973)になると、女装を伴うⅠ・Ⅲ類型のショー・ビジネス化が進行するとともに、女装を伴わないⅡ・Ⅳ類型との分離が進む。

(7)昭和安定成長期(1974~1984)になると、女装を伴わない男性同士の性愛世界の主流が、年齢階梯性を伴うⅡ類型から、年齢階梯性を伴わないⅣ類型に移行する(要・実証)。
それと同時進行で、東京においては、女装を伴わない男性同士の性愛世界の新宿二丁目への極端な集中(ゲイタウン化)が進行する。
両者が、どう関係するのか、今後の課題。
一方、女装を伴うⅠ・Ⅲ類型は「ニューハーフ」世界としてリニューアルされる。

(註)年齢階梯制を伴う男色とは、能動の側としての年長者と受動の側としての年少者という役割が厳格に決められている点に特徴がある。
つまり、成人男性(能動)と少年(受動)、年長の少年(能動)と年少の少年(受動)という形態。
少年が元服して成人男性になる、あるいは、年少者が成長して年長者になると、受動から能動に移行する。
このエンドレスなシステムによって、男色の精神と技術が継承され、その永続性が保証される。
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まあ、こんな感じの見取り図。
そんなには違っていないと思うが、もう少し実証的に詰める必要がある。
とくに年齢階梯制の希薄化とゲイタウン形成の同時進行の意味とその構造。



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