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【報告記録】「GIDの『神話』を『歴史』に引き戻す」 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

3月27日(月)

3月18・19日に札幌医科大学で開催された「GID(性同一性障害)学会 第19回研究大会」のシンポジウム5「ジェンダーの多様性をめぐる神話」における、私の報告の記録です。

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GID(性同一性障害)学会 第19回研究大会(札幌医科大学)
シンポジウム5「ジェンダーの多様性をめぐる神話」(2017年3月19日)

GIDの「神話」を「歴史」に引き戻す
    三橋順子(明治大学)

歴史を学ぶことの役割は、過去を振り返ってたどってきた道を知ることで、現在の立ち位置を確認し、未来への適切な道筋を探すことにあります。私は歴史学を学んだものとして、常にそのことを念頭において研究をしてきました。。したがって、誤った歴史認識は不適切な未来を招きかねません。そこで、この報告ではGIDに関わる誤った「神話」を正しい歴史認識に引き戻しておこうと思います。お話するポイントは以下の5点です。

①「日本初」の性別適合手術は埼玉医科大学ではない
第一に「日本初」の性別適合手術は埼玉医科大学ではありません。昨日のレジェンド講演で山内俊雄先生は「公の手術」とおっしゃいましたが、あくまで日本精神神経学会のガイドラインに基づく初めての手術ということです。同じくレジェンド講演をされた原科孝雄先生がなさったのは女性から男性への日本初の手術であり、男性から女性への手術はそれ以前にも行われていました。

性別移行を目的とした造膣手術は、日本医科大学病院で1951年春(4月以降)に永井明(女性名:明子)に対して行われたものが日本最初です。執刀は石川正臣産婦人科教授でした。石川先生はその後日本産婦人科学会の会長を長く務められた重鎮です。これは同年5月15日にイギリスで行われたRobert Cowell(女性名:Roberta)に対する手術より早く、戦後世界最初の転性手術だった可能性が高いと思われます。1950年代、日本の形成外科の技術は、けっして後進的ではなく、世界のトップレベルでした。そのことにもっとプライドを持つべきです。

私は、1990年代後半に原科先生、山内先生が大きい勇気をもって、長らく停滞していた日本の性別移行医療を再開し、新しい時代を開かれたことを、時に直接お話をうかがいながらリアルタイムで見ていました。ですからその功績を否定するつもりはありません。しかし、それ以前に存在した歴史事実は「なかったこと」にせず、しっかり認識すべきだと思います。

永井明子1.jpg 
↑ 永井明子
(『日本週報』1954年11月5日号)
永井明子(『日本観光新聞』19530918)4-2.jpg
↑ 永井明子
(『日本観光新聞』1953年09月18日号)
Roberta Cowell2.jpg
↑ Roberta Cowell

②「GID特例法」以前にも戸籍の性別変更は可能だった
第二は、「GID特例法」以前にも戸籍の性別変更は可能だったということです。転性手術にともなう戸籍の続柄変更は、1951~53年に永井明子が、1980年に布川敏が戸籍法113条(訂正)に基づいて男性から女性へ性別変更をしていることが戸籍の写真などから確認できます。他にも戸籍は未確認だが性別訂正の事例が2例ほどあります。

永井さんの事例は、詳しいことはわかりませんが、おそらく手術からあまり都気を置かずに訂正がなされたと思われます。布川さんの事例については、インターセックスを装った訂正ではないのか?と疑問視する人がいましたが、スタンフォード大学の診断書には、はっきり「diagnosis of transsexualism(性転換症の診断)」の記述があり(Bokeは布川さんの源氏名)、疑いは否定されます。
永井明子2.jpg
↑ 永井明子の戸籍  参男→二女、明→明子に訂正
(『日本週報』1954年11月5日号)
布川敏(1999年)1 - コピー.jpg
↑ 布川敏さん(『FLASH』1999年3月30日・4月6日号)
布川敏(戸籍)2.jpg
↑ 布川敏の戸籍  長男→長女、敏之→敏に訂正
(『週刊文春』)1981年4月23日号)
布川敏(診断書) (1).jpg
↑ 布川敏の診断書(スタンフォード大学)
(『週刊文春』)1981年4月23日号)
布川敏(診断書) (2).jpg
↑ diagnosis of transsexualism(性転換症の診断)の記述がある。

③「ブルーボーイ事件」は特異事例である
第三は、「ブルーボーイ事件」(1965年10月摘発)は特異事例であるということです。「ブルーボーイ事件」前後の1950~60年代には33例ほどの転性手術の事例が知られています。その内の94%は国内での手術です。にもかかわらず摘発・起訴されたのは「ブルーボーイ」事件ただ1例だけなのです。他の事例は週刊誌などに報道されて公になっているにもかかわらず、警察は動いた形跡がありません。

では、なぜ「ブーボーイ事件」だけが摘発されたかといえば、転性手術が「売春」行為に利用された特異事例だからです。当時は、「売春防止法」完全施行から7年しか経ってなく、警察が「売防法」の抜け道摘発に熱心だった時期で素。ということで、「ブルーボーイ事件」はかなり特異な事例であり、一般化すべきではないと思います。

④「ブルーボーイ」=男娼ではない
第四は、「ブルーボーイ」=男娼ではない、ということです。「ブルーボーイ」は身体を女性化した男性の意味の俗語で、1963年に初来日したフランス・パリの「カルーゼル」のショーダンサーたちに付けられたキャッチコピーです。そういう起源ですから「ブルーボーイ」の職業はショービジネス(ダンサー)が中心でした。1960年代後半には「和製ブルーボーイ」として銀座ローズさんやカルーセル麻紀さんが活躍します。

「ブルーボーイ」の中にセックスワーク(男娼)を仕事にしていた人もいたということです。したがって、日本精神神経学会のガイドライン(第4版)が「男娼(ブルーボーイ)」と表記しているのは誤解を招き不適切です。
ブルーボーイ1(1964年11月第2回公演パンフレット。モデルはバンビ).jpg
↑ ブルーボーイの来日(第2回公演:1964年)
(「ゴールデン赤坂」のパンフレット:三橋所蔵)
ブルーボーイ3(1965年第3回公演のメンバー) (2).jpg
↑ ブルーボーイの来日(第3回公演: 1965年)
(掲載紙不明 1965年)
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↑ 和製ブルーボーイの活躍(銀座ローズ)
(『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊号)
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↑ 和製ブルーボーイの活躍(カルーセル麻紀)
(『風俗奇譚』1966年4月臨時増刊号)

⑤「暗黒時代」ではない
最後に第五です。1998年の埼玉医科大学の手術以前は、けっして「暗黒時代」ではないということです。今よりずっと困難な環境の中で性別移行を望む人々と、それを助ける医師の真摯な営みがあったことを忘れるべきではありません。それを「闇」呼ばわりするのはあまりに失礼だと思います。

以下、困難な時代に、望みの性別で自分らしく生きようとした先達たちの画像を紹介して、この報告を終えようと思います。
ご清聴、ありがとうございました。

永井明子3(2).jpg 
↑ 永井明子 1951年春、日本医科大学病院でSRS
 (『日本観光新聞』1954年頃)

椎名敏江6(2).jpg
↑ 椎名敏江 1955年SRS
 (『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

吉本一二三3.jpg
↑ 吉本一二三 1961年SRS
(『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)

銀座ローズ(『風俗奇譚』6501S)6.jpg
↑ 武藤真理子(銀座ローズ) 
1962年、大阪曾根崎・荻家整形外科病院でSRS
(『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊号)

ひばり&江梨子(平凡パンチ19680520)2(2).jpg
↑ ひばり&江梨子
左・兄(姉)ヒバリ 1967年SRS  右・弟(妹)江梨子 1966年SRS
(『平凡パンチ』1968年5月20日号)

カルーセル麻紀(1967)1 (2).jpg
↑ カルーセル麻紀 1973年、モロッコ・カサブランカでSRS
執刀はDr.ジョルジュ・ブロー
(『平凡パンチ』1967年10月2日号)
モロッコでブロー博士の手術を受けた日本人はカルーセル麻紀が最初ではなく、その前に少なくとも2人いる。

はるな愛(091122)5.jpg
↑ はるな愛 1995年、大阪・わだ形成クリニックでSRS
(2009年11月22日、撮影:三橋順子)

【参考文献】
三橋順子「性転換の社会史(1) -日本における「性転換」概念の形成とその実態、1950~60年代を中心に-」
三橋順子「性転換の社会史(2) -「性転換」のアンダーグラウンド化と報道、1970~90年代前半を中心に-」
(いずれも、矢島正見編『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部、2006年)
三橋順子「ゲイボーイ、シスターボーイ、ブルーボーイ」
 (『性の用語集』 講談社 2004年)

【質疑応答】
コメントしてくださった〇〇さんとは、新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」で一緒でした。〇〇さんのような女装世界に身を置いた方が、性同一性障害の世界で肩身の狭い思いをされてきたことは、よく存じています。GID学会の懇親会で、私のところにそっと寄ってきて「私が新宿の女装の店に通っていたこと、黙っていてください」と懇願してきた方もいました。もちろん黙っていますが。
どうしてこんなことになったのか、それは日本のGID治療が、ニューハーフ世界や女装世界など既存のトランスジェンダーコミュニティと断絶した形で始まったからです。
「ガイドライン」第1版では「職業的利得条項」によって商業的なトランスジェンダーであるニューハーフは診断・治療の対象から排除されました。これは明らかな医療差別です。
そうした断絶と排除によって、既存のトランスジェンダー世界で長年積み重ねられてきた男性から女性への性別移行のノウハウやテクニックが継承されず、活かされることがなかった。これは間違いなく損失であり、日本のGID医療の大きな誤りだったと思います。
このことについては、いつか機会をいただけたら、お話したいと思います。

【報告者略歴
1955年、埼玉県生まれ。性社会・文化史研究者。明治大学、都留文科大学、群馬大学医学部など非常勤講師。
専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史学、とりわけ性別越境(トランスジェンダー)の社会・文化史。
著書に『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)、共編著に『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部、2006年)、『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社 2015年)。主な論文に「性と愛のはざま-近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う-」(『講座 日本の思想 第5巻 身と心』岩波書店、2013年)、「性別越境・同性間性愛文化の普遍性」(『精神科治療学』31巻8号 星和書店 2016年)など。

『朝日新聞』に「カストリ書房」の記事 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

3月14日(火)

私もお世話になっている、東京・新吉原の「カストリ書房」が『朝日新聞』(3月14日朝刊)に大きく取り上げられました。
朝日新聞2017031414 - コピー.jpg
「カストリ書房」は、2016年9月3日に新吉原大門(跡)脇にオープンした遊廓・赤線など性風俗書に特化した書店で、今後さらなるご繁盛が期待されます。

「演劇研究会」関係資料の保全 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

3月14日(火)

拙宅には、1950年代後半に活動した日本最初のアマチュア女装秘密結社「演劇研究会」の資料(会誌・名簿・通信)が保存されている。

会員だった女装者の方(故人)から寄贈されたものだが、そもそも会員数最大72名の会で、一般配布はしていないので、印刷(ガリ版)された部数がとても少ない(おそらく40~70部)。
しかも内容が内容なので、現物はおそらくこの世に1,2点しか残っていないと思われる。

ちなみに会誌『演劇評論』は全25号(合併号があるので24冊)の内、9、11、12、14、15、16、19、20、21、23・24合併号の10冊を山崎淳子さん(会員番号48番)寄贈の現物で、5、6、13、17、18、22、25号の7冊を美島弥生さん(会員番号56番)所蔵のものをコピーして持っている。
全24冊の内、17冊を所持しているが、1~4号、7、8、10号は未見で、この世に存在するかどうか、かなり疑わしい。

演劇評論(山崎淳子さん寄贈)(2).JPG
↑ 『演劇評論』(山崎淳子さん寄贈分)
演劇評論21号・23.24合併号 (2).JPG
↑ 『演劇評論』21号と23・24合併号

それに加えて、1956年5月発行の会員名簿と、『演劇評論』が刊行できなくなった末期に発行された「演研通信」1~6号(1、2、5、6が現物、3、4はコピー)がある。
演劇研究会会員名簿(1956年5月) (2).jpg
↑ 会員名簿(1956年5月発行)

「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」の資料収集の際にすべてコピーを取り、某大学の研究室に保管されているので、ウチが地震で潰れても火事で焼けても隠滅はしないが、やはり現物は貴重だ。

だが、なにしろ60年近く前のもので、紙の劣化が進んでいる。
とくに、1枚刷りの「演研通信」が、扱うのがけっこう怖い状態になっている。

以前から、画像資料にして保全しておく必要を感じていたがなかなか時間が取れなかった。
今日、「演研通信」だけだが画像に取りこんだ。

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↑ 「演研通信」1号(1958年1月発行)
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↑ 「演劇通信」5号(1958年5月発行)
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↑ 「演劇通信」6号(1958年10月発行)

性的マイノリティの戦後初期資料(多くは同人誌)は、トランスジェンダーだけでなく、ゲイもレズビアンも、残存数が少ない。
こうした希少資料を後世にどう伝えていくか、真剣に考えなければならない時期に来ている。

小池美喜さん(筆名:成子素人)の手記をアップ [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

2月17日(金)

1960~70年代の日本のアマチュア女装世界をリードした女装秘密結社「富貴クラブ」の会員だった小池美喜さん(筆名:成子素人)の手記をアップしました。

成子素人「もう一人の私 のこと」(前編)
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18
成子素人「もう一人の私 のこと」(後編)
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18-1

28000字を越える長文の手記で、2000年秋頃に執筆され、2001年春に私に託されたものです。
2005年頃にはテキスト化を終えていましたが、様々な事情で公開が遅れました。

謎の多い「富貴クラブ」の実像を物語る一級資料として、また20世紀後半を生きた一人の女装者の半生記として、さらには同時代の風俗研究資料として、とても貴重なものです。

読み物として興味をもっていただくとともに、研究資料として活用していただけたら幸いに思います。
詳しい解説は下記をご覧ください。

三橋順子「(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2017-02-18-2

メディアにおける性的少数者への差別(メモ) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月28日(土)

男性同性愛者がテレビに出演する場合、期待されていたのは「一般人とは異なる特有の感性・物の見方・話のおもしろさ」だった。
そこに「笑い」の要素はあったが、それがメインではなかった。
美輪先生、青江のママ、カルーセル麻紀さん、初期のおすぎ&ピーコもそうだった。
時期的には1980年代まで。

それが、男性同性愛者の存在そのものが笑いの対象、さらには露骨に「気持ち悪い」対象に、変化していったのは1990年前後だと思う。
それ以前はそれほど明確ではなかった。
そもそも可視化されていたのは、もっぱら女装のゲイ、もしくはニューハーフ的な人だけで、男性的なゲイは(例外的な人を除き)ほとんど可視化されていなかった。

その転機は、フジテレビ系列の「とんねるずのみなさんのおかげです」(1988年レギュラー化)で石橋貴明が扮した「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」だったと思う。
あの悪意のあるステレオタイプ化は、ほんとうに強烈だった。
保毛尾田保毛男.jpg
現在50歳以上の当事者性のある方は、その衝撃を覚えていると思う。
あれで「きもい」「笑いの対象」としての「ホモ」の視覚的イメージが固まったように思う。

メディアにおける性的少数者への差別は、昔ほどひどいと思っている人がいるが、必ずしもそうではない。
ある時期に、メディアが差別の構造を作り出しているケースもけっこうある。
「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」などはその典型。

「おかま」という言葉も1970年代前半までは、少なくとも一般雑誌(週刊誌・月刊誌)レベルでは、ほとんど使われていない。
使われていても、本来の用法(おかま=肛門をつかってお商売する人=おかま屋=女装男娼)がほとんど。

それが、977~78年頃から、女装する男性だけでなく、女性的な男性同性愛者まで含める形で意味を拡張して、メディアが乱用するようになる。
メディアによって、笑い者、差別する対象として「おかま」という言葉がリニューアルされたと言える。

データで示すと、一般雑誌記事の商業的なトランスジェンダーの呼称を調べると、1971~75年はゲイボーイ80%、「おかま」16%だったのが、1976~80年ではゲイボーイ38%、「おかま」63%とまったく逆転する。
この時期に転機があったのは明らかだ。


戦後世界最初の性別移行手術は日本の可能性大 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月14日(土)

男性から女性への性別移行手術は、1930~31年にデンマーク人画家Einar Mogens Wegener(女性名:Lili Elbe)に対して、ドイツで行われた手術(手術後ほどなく死亡し、実質的には失敗)を除けば、最初の事例は、1950~51年にイギリス空軍中尉Robert Marshall Cowell(女性名:Roberta Elizabeth Marshall Cowell)と考えられていた。

(参照)三橋順子「性転換の社会史(1) -日本における「性転換」概念の形成とその実態、1950~60年代を中心に-」
(矢島正見編『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部 2006年)

今回、改めて調べ直したところ、Cowellの造膣手術が1951年5月15日であることが判明した。

これに対し、日本初の事例である永井明(女性名:永井明子)は、日本医科大学病院で1951年4月頃に造膣手術を完了している(執刀:石井正臣日本医科大学教授)。

残念ながら永井の手術の正確な日付はわからないが、「4月」以降で「春」である。

これによって、永井の造膣手術はCowelの手術よりやや早いか、ほぼ同時で、戦後世界初(成功したものとしては世界初)であった可能性が強くなった。
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(0)Einar Mogens Wegener(女性名:Lili Elbe)
デンマーク人、画家、1882~1931年
Lili Elbe2.jpg
1930年、ベルリンで睾丸摘出手術、次いでドレスデン市立産婦人科診療所でクルト・ヴァルネクロス医師の執刀で陰茎の除去と卵巣の移植手術を受ける。その際に未発達な卵巣様のものが検出されているので、インターセックス体質だった可能性がある。
(移植卵巣は拒絶反応のため手術で摘出)
1931年、子宮移植手術。
手術から程なく死亡(48歳)。
性転換手術としては失敗だった。

(1)永井明(女性名:永井明子)
日本人、病院雑役夫、1924年~?
永井明子(『日本週報』1954年11月5日号).jpg
↑ 永井明子(『日本週報』1954年11月5日号)

T大病院(東京大学病院?)の精神科を訪れて「精神病者」という診断書(精神科では治療不能という証明か?)を取得。
1950年8月、上野の竹内外科病院(竹内篁一郎院長)で精巣と陰茎の除去手術を受ける。
女性ホルモンを投与しながら、髪形や服装を女性に改め、進駐軍関係者のハウスメイド(家政婦)に転じる。
1951年春(4月以降)、日本医科大学付属病院で造膣手術を受ける(執刀は、石川正臣教授)。
その後、戸籍の名前を明から明子へ、続柄を三男から次女に変更。
永井明子2.jpg
↑ 変更された戸籍

(2)Robert Marshall Cowell(女性名:Roberta Elizabeth Marshall Cowell)
イギリス人、イギリス空軍中尉(戦闘機パイロット)、1918~2011年
Roberta Cowell2.jpg
1949年、マイケル・ディロン医師のもとで性転換治療を開始。
女性ホルモンの大量投与を受ける。
1950年、睾丸摘出手術。
1951年5月15日、サー・ハロルド・ギリーズ医師と米国外科医のラルフ・ミラード医師(アメリカの外科医)の執刀で造膣手術。
2011年、死去(93歳)

(3)George William Jorgensen, Jr.(女性名:Christine Jorgensen)
アメリカ人、アメリカ陸軍兵士、1926~1989年
Christine Jorgensen1-3.jpg
1950年8月、デンマーク(コペンハーゲン)のスタテンス分泌液研究所のホルモン部長クリスチャン・ハンブルガー博士の診断を受けて性別移行のための治療プログラムを開始。
10カ月間の女性ホルモン投与を受ける。
1952年2月に形成外科医ダール・イヴェルゼン教授の執刀で性器の女性化手術。
1989年、肺癌で死去(62歳)

トランスジェンダー歌謡の歴史 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月6日(金)

トランスジェンダーの歌謡(歌手)については、2004年に論文「トランスジェンダーと興行-戦後日本を中心に-」(『現代風俗2004 興行』新宿書房 2005年2月)を書いたとき,初期の「性転換者」に歌手になった人が多いことに気づいて以来、気になっていた。
話が前後するが、1990年代後半に私がお手伝いしていた店(新宿歌舞伎町「ジュネ」)は、カラオケ・女装スナック的な店で、スタッフやお客さんに歌上手が多かった。
私も成り行きで唄う機会が多く、そうした自己体験的にも、トランスジェンダーと歌謡には関心をもっていた。
ただ、いろいろ多忙で、なかなかまとめる機会がなかった。
昨夜、Twitterでこの分野に関心がある方(藤嶋隆樹さん)とやりとりした勢いで、まとめてみた。
まだ調べたりないことも多いので、いろいろご教示いただけると、幸いに思う。
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1950年代に男性から女性へ「性転換」した永井明子、吉川香代、椎名敏江は、いずれも転性後に歌手になっている。
永井と椎名(芸名:ジーナ敏江)はシャンソン歌手として舞台に立ち、歌っているステージ写真は残っているが、レコードは出していないと思う(正確に言えば、未確認)。
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↑ 唄う永井明子(『東京タイムズ』1953年9月13日)
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↑ シャンソン歌手ジーナ敏江の舞台(『100万人のよる』1959年1月号)

「にわか歌手」だった永井と椎名とは異なり、吉川はもともと音楽畑の人だった。
音楽家を目指して国立音楽大学に入学、ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任した。
1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征したが、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立つ。
その後、女性的な体質が表面化し、1954~55年に女性への転性手術を受け、教職を辞して職業歌手に転身。
芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍し、その後は、歌謡教室の教師に転じた。
(参照)三橋順子「日本女装昔話27 男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_27.htm
吉川香代4.jpg
↑ 唄う緑川雅美(掲載誌不明。1957~58年頃)

1960年前半に、「性転換」ダンサーとして人気があった銀座ローズも舞台では歌っていた。
「女の運命」というレコードを「テイチク」から出している。
発売年は1970年と思われるが、全盛期を過ぎていて要確認。
銀座ローズ「女の運命」.jpg
↑ 銀座ローズ「女の運命」(1970年?)

「和製ブルーボーイ」としては銀座ローズの後輩になるカルーセル麻紀は、1968年に「愛してヨコハマ」でレコード・デビューしている。
今のところ、これがトランスジェンダーのレコードの最初である可能性が高い。
カルーセル麻紀「愛してヨコハマ」.jpg
カルーセル麻紀は、その後も1970年代に数枚のレコードを出ている。
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↑ 「夜の花びら」(1974年)
カルーセル麻紀「灰皿とって」.jpg
↑ 「灰皿とって」(1978年)
カルーセル麻紀「日本列島日が暮れて…」.jpg
↑ 「日本列島日が暮れて…」(1977年)
カルーセル麻紀「なりゆきまかせ」」.jpg
↑ 「なりゆきまかせ」(1980年)

1969年には「ブルーボーイ歌手」のキャッチコピーで、ヘレン南がレコード・デビューした。
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↑ ヘレン南「女ごころ」
ヘレン南は、晩年、静岡県焼津市の「松風閣」というホテルの専属歌手をしていたが、2009年末に亡くなった。
私が2010年夏にお話をうかがったゴールデン圭子さん(1960年代に「性転換ダンサー」として活躍、晩年は岐阜市柳ケ瀬のスナック「シーラカンス」のママ)の同郷(北海道出身)の友達だった。

ちなみに、「ブルーボーイ」とは1963年にフランス・パリの「カルーゼル」の性転換女性たちが来日公演して話題になったときに、マスメディアがつけた呼称で、「身体を女性化した男性」という意味。
その後、銀座ローズやカルーセル麻紀など、日本人の同じような人を「和製ブルーボーイ」と呼ぶようになった。

ヘレン南とほぼ同時代に女装歌手として話題になったのが橘アンリ。
1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで、週3回、レストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌った。
声はやはり低音だったようだ。
「甘い生活」というレコードを1970年に出している。
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↑ 橘アンリ「甘い生活」(1970)。
(参照)三橋順子「日本女装昔話 番外編 5 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_bangai_05.htm
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↑ 唄う橘アンリ(掲載誌不明 1970年4月頃)

1981年4月、大阪のゲイボーイ、ベティ(後に「ベティのマヨネーズ」のママ)が桑田佳祐の作詞作曲で「I Love you はひとりごと」というレコードを出す。
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↑ ベティ「I Love you はひとりごと」
そのとき、桑田が考案した「男と女のハーフ」という意味の「ニュー・ハーフ」というキャッチコピーが、「ニューハーフ」の語源になる。

1981年3月にポスター企画「六本木美人」に選ばれ、1981年10月公開の角川映画「蔵の中」に主演し、ニューハーフ・ブームを起こした松原留美子は、アルバム(LP)で「ニューハーフ」(を出し、さらにシングルで「一夜恋」「砂時計」を出している。
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↑ 松原留美子「ニューハーフ」(1981年9月21日)
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↑ 松原留美子「一夜恋」(1981年11月1日)
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↑ 松原留美子「砂時計」(1982年7月21日)
松原のレコードは聴いたことがあるが、すごいハスキーボイスというか、ほとんど男声で、かなり厳しかった。

男性から女性へのトランスジェンダーの場合、一度、声変わりしたら、いくら女性ホルモンを投与しても声は高くならない。
したがって、女性歌手としてやっていくのはかなり辛いものがあり、話題にはなっても、職業的にはなかなか成功し難い。

その点、声帯ポリープを患う前のはるな愛は、きれいな女声で、歌もうまかった。

現在のトランスジェンダー歌手としては、中村中(あたる)が第一人者であることは異論はないだろう。
2006年9月にリリースした「友達の詩」がヒットし、2007年大晦日のNHK紅白歌合戦に戸籍上男性のソロシンガーとしては初めて紅組で出場した。
中村中『友達の詩』.jpg
↑ 中村中『友達の詩』(2006年9月)
中村中 (2).jpg
男声、女声を超越した迫力ある歌唱は、実に魅力的。

1953年(昭和28)頃の男性同性愛者の出会いの場 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月3日(火)

1953年(昭和28)頃の男性同性愛者の出会いの場

東京 
(1)映画館・劇場
有楽町「日本劇場」地階
新宿「文化劇場」「帝都座階上の名画座」
浅草「東京クラブ」「日本館」

(2)公衆便所
日比谷公園公会堂附近
神田竹橋のたもと
神田K公園
四谷見附近く

(3)男色喫茶
新宿「夜曲」

大阪 
(1)映画館
新世界界隈
道頓堀
 歌舞伎座付近のニュース映画館
九条方面

(2)公園
天王寺公園
中之島公園

(3)男色旅館 6軒ほど
阿倍野区内「さくら」「ますみ」

京都 
(1)映画館
京極「八千代館」

(2)公園
円山公園

関東(東京)は男色喫茶、関西(大阪)は男色旅館という相違(特色)。
京都は、京極の八千代館で出会い円山公園へというコースが定番。
「ハッテン場」という言葉は使われていない。

個々の場所の特定は今後の課題。

文献は、藤井晃「ソドミア風土記ー関東・関西における同性愛者の集合地帯ー」(『臨時増刊 秘蔵版 風俗草紙』、日本特集出版社 1953年12月)

【注記】
東京の「神田K公園」の候補としては、JR神田駅の西にある(旧・司町)の「神田公園」か、駿河台下(明治大学裏)の「錦華公園」か、どちらか。

東京・新宿の「文化劇場」は、新宿3丁目、明治通り東側にあった映画館街にあった映画館(南から、新宿大映、新宿東宝、新宿文化劇場と並んでいた)。
現在の「新宿文化ビル」(新宿区新宿3-13-3)。

大阪・阿倍野区の男色旅館「さくら」は「佐久良」とのこと(鹿野由行氏の教示による)。

京都・「八千代館」は、中京区新京極通四条上ル東入ルにあった映画館。
戦後は成人映画専門で「ピンクの殿堂」と言われた。
明治末期から100年近い歴史を刻んだが、2007年12月29日に閉館した。

男性同性愛の隠語「〇〇専」初例更新 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月3日(火)

1953年(昭和28)の男性同性愛関係の文献に「外専」(外国人相手の男)「老け専」(年配相手の男)という隠語が紹介されている。

従来「〇〇専」の早い用例としては太田典礼編『第三の性』(1957年)に出てくる「老け専」が知られていたが、それより4年早く、初例更新だと思う。

文献は、藤井晃「ソドミア風土記ー関東関西における同性愛者の集合地帯ー」(『臨時増刊 秘蔵版 風俗草紙』、日本特集出版社 1953年12月)

小野善弘『もうひとつの夜』ー1950年代男性同性愛関係書籍の紹介(2)ー [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月1日(日)

小野善弘著『もうひとつの夜』(東京ライフ社、1958年)は、1958年前後の「第一次ゲイブーム」に刊行された小説集。
小野善通『もうひとつの夜』 2(2).jpg
1950年代中頃の東京・新宿歌舞伎町周辺を舞台に、著者と思われる「僕」、恋人の洋児、ゲイバー「ネロ」のマスター、「文化女性」のお竹とお菊などの群像小説。

1950年代なので、新宿二丁目の「ゲイタウン」は影も形もない。
「文化女性」とは、当時の用語で、身体的には男性だけどジェンダー的には女性として暮らしている人。
ちなみに、身体も女性化している人は「人工女性」と言った。

この小説、紆余曲折の末に小説家志望の「僕」と学生の洋児が、横浜の若葉町に喫茶店を開くところで終わる(ハッピー・エンド)。
一方、「文化女性」のお竹とお菊は、どちらも若くして悲惨な最期を遂げる。
トランスジェンダーとしては可哀想で仕方がない。

著者の小野善弘は、この小説集(中編の「もうひとつの夜」と短編の「しっぽ」を収録)があるだけで、今のところ経歴不詳。
どなたか、情報をお持ちの方がいらしたら、ご教示いただきたいと思う
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1 書誌
小野善弘著『もうひとつの夜』
発行所:東京ライフ社(東京都千代田区神田三崎町2番地) 
発行年月:1958(昭和33)年10月
定価:240円
体裁:四六判(B6版)220頁 表紙カバー
序文・跋文:なし
内容:短編小説「しっぽ」、中編小説「もうひとつの夜」」の2篇を収録した小説集
帯:(表)侮辱され罵られながら夜毎強烈に燃える第三の性! あなたの隣にもうひとつの夜がある
  (裏)男でもない、女でもない、もうひとつの性! 男色といわれ、鶏姦といわれ、ゲイといわれた著者が鋭い筆致で、異常な同性愛者の青白い夜を描破した問題の書!

2 著者
・ 経歴不詳。国会図書館NDL-OPACで調べても、この1点のみ。
・ 1958年に30歳と仮定すると、1928年の生まれ。存命なら89歳。

3 内容
・ 4章構成。
・ 主な舞台は1950年代中頃の東京新宿。
・ 作中の「僕」が著者と思われる自伝的小説。
・ 「僕」、恋人の洋児、ゲイバー「ネロ」のマスター、「文化女性」のお竹とお菊などを中心とした群像小説。


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