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ゲイの歴史学の課題 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

8月27日(日)
(続き)
13時半、渋谷猿楽町の「アマランス ラウンジ」へ。
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ドキュメンタリー映画「Stonewall Uprising」(2010年)を見る(2度目)。
映画の感想(↓)
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2017-07-21-2

休憩の後、、長谷川博史さんと畑野とまとさんのトークライブ(MCはEdoさん)を聴く。
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映画を最初に見た時、「『Stonewall蜂起』(1969年)の頃、日本の同性愛者たちは、どうしていたのだろう?」という疑問をもった。

1969年というと、新宿二丁目の「ゲイタウン」の形成期で、急速にゲイバーの数が増えていく時期に相当する。

しかし、その具体像、つまり、何という店が、いつ、どこに開店したかは、ほとんどわかっていないようだ。
大御所(大ベテラン)の長谷川さんでさえも、まだ二丁目に来ていない。

二丁目に「ゲイタウン」が形成されるまで(~1960年代)の地域の歴史は、私ができるだけ調べて明らかにしようと思っている。

しかし、「ゲイタウン」が形成されてしまうと、一般の文献では追跡できなくなってしまう。
「ゲットー化」は、外部の人間にとっては「不可視化」なのだ。
やはり、内部のゲイ同人誌と当事者の聞き取り調査で明らかにしていくしかない。
でも、それは、ゲイではない私にはほとんど不可能なことだ。

しかし、日本のゲイの歴史学の大きな課題であり、誰かがやらなければいけない仕事だと思う。
そして、聞き取り調査のことを考えると、残されている時間は多くない。

17時、Edoさんが「懇親会いかが」と誘ってくださったが「猫のご飯を作らないといけないので」と言って辞去。

ここだったら、渋谷駅に戻るよりは、と思い、代官山駅を目指す。
ところが、少し足元がふらつく。
やっぱり、暑い時の昼間にお酒を飲んでは駄目だ。
なんとか代官山の駅に着いて、東急東横線に乗車。
(続く)

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男色喫茶・酒場「イプセン」の位置 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

8月13日(日)

伏見憲明さんとの対談「新宿二丁目ができるまで」に出てくる、新宿3丁目にあった男色喫茶・酒場「イプセン」。
http://aday.online/2017/08/09/oshiete-6/
イプセン - コピー.jpg
↑ モダンな外壁、「イプセン」は2階で(看板の位置が高い)、1階は「ロア」という店だった(写真は伏見憲明さん提供)。

「イプセン」は、1951年(昭和26)開店(伏見さんが店主から聞き取り)。
『内外タイムス』1953年(昭和28)7月23日号に「男色酒場I」として紹介された。
内外タイムス19530723 (2) - コピー.jpg
内外タイムス19530723 (3) - コピー.jpg
↑ 看板に「イプセン」と読める。

『風俗草紙』1954年1月号掲載の、かびや・かずひこ「続・男色喫茶店」にも、紹介されている。

1965年刊行(1963~64年現況)の住宅地図では、明治通り東側(「伊勢丹」の向かい)の映画館街の裏通り、「新宿大映」(現在は「コメ兵」)の裏手に「喫茶イプセン」とある。
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「バー ロア」と同じ区画に書かれている。
1階が「ロア」で2階が「イプセン」。
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現在は、住宅地図の「トルコかぶき」「喫茶イプセン・バーロア」「旅館文園」「バーエルザ・バーマム」の範囲が「第6三和ビル」になっていて、1階にはパチンコ店が入っている。
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↑ 現況(2017年8月8日撮影)。
「イプセン」があったのは、画面中央左寄り「新装開店」ののぼりが立っているあたりか。


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年表を作る [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

7月13日(木)

年表を作るって、すごく大変なのだ。

年表は歴史事実で構成しなければならないから、まず、事実関係を調べないといけない。
それには、まず膨大な文献を集めて、読み込み、事実を確定していけなければならない。

その次に、どの事実を年表に記載するかの取捨選定作業になる。
これがまた大変。
スペースがあるのなら、集めたデータを全部載せてしまった方がよほど簡単だが、実際にはそうもいかない。

私は、2000年に「戦後日本トランスジェンダー社会史年表」を作成した(『戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史Ⅰ』 中央大学矢島研究室、2000年3月、 P24~91)。
1945年~1999年までの、トランスジェンダーに関するできる限り詳細な年表(A4版68頁)だが、作業にはまるまる1年を要した。

その年表に基づいて「戦後日本トランスジェンダー社会の歴史的変遷の素描」(同上、P6~23)を書き、さらにそれを基にして、「日本トランスジェンダー略史」(米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言-性別の自己決定権と多様な性の肯定-』社会批評社、2003年5月、P96~129)をまとめた。

そして、2000年代の分を加筆して「日本トランスジェンダー小史 ー先達たちの歩みをたどるー」(『現代思想』2015年10月号 青土社、2015年10月、P218~230)を書いた。
戦後日本におけるトランスジェンダーの歴史の大要は、これでたどることができる。

年表は1999年で止まっているが、2000年以降の分を増補するとなると、すごく大きな作業量になる。
1999年以前の分も、新たな事実がいろいろ判明しているので、本当は訂正・加筆をしたい。
ただ、私にはそこに振り向ける気力と体力、そして時間がもうない。

口はばったいが、日本のトランスジェンダーは自分たちの先輩たちが為してきたこと、自分たちがたどってきた道筋(歴史)を明らかにする努力をそれなりに積み重ねてきた。

それに対して、日本のゲイ、レズビアンは、長らく自分たちの歴史に関心を抱かず、それを明らかにする努力を怠ってきた。
だから、現在でも、せいぜい略年表レベルのものしかなく、ちゃんとした通史が書けない。

今からでも、まだ間に合う。
日本のゲイ、レズビアンが、自分たちの歴史に関心を持ち、その歴史を明らかにし、詳細な年表を作る作業に取り組んでほしい。

歴史を明らかにすることは、現在の自分たちがプライドを抱き、未来への道筋を明らかにすることにつながるのだから。





テレビ・メディアとトランスジェンダー(1960年代後半~1980年代) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月30日(金)

明治大学文学部「ジェンダー論」の第11講は「テレビ・メディアとジェンダー(1)―描かれるもの、消されるもの、操作されるイメージ―」。
そこに、今年度から「テレビ・メディアとトランスジェンダーの歴史」というパートを入れてみた。
通史的に述べる準備もないし、時間的な余裕もないので、トピック的な「パイロット版(試作版)」だが。

(1)1960年代後半~1980年代
 ・ テレビ放送開始(1953年)10数年後の1968年頃には、もうトランスジェンダー的な人が「11PM」(日本テレビ系)などの深夜番組に出演していた。
  (例)カルーセル麻紀、青江のママ、光岡優(銀座ホステス)
   → 欧米諸国に比べて格段に早い。
   → 「倫理規定」の制約で深夜枠しか出られなかったが・・・。
   → 「変わった人」ではあったが、必ずしも「笑いの対象」ではなかった。

「1968年」としたのは、私が中学生の時(1968~1970年)、テレビの深夜番組(おそらく「11PM」)にカルーセル麻紀さんが出ていた記憶があるからだ。
さらに、1968年は「第二次性転換ブーム」だったので、この年と推測した。

ここで大事なことは、「欧米諸国に比べて格段に早い」ということ(おそらく20年くらい)、そして、「変わった人」ではあったが、必ずしも「笑いの対象」ではなかったということ。

ただ、記憶だよりで証拠(映像)がない。
「そんなはずはない」「エビデンス(証拠)を示せ」「記憶違いだ!」「嘘だ!」と言われてしまうと反論のしようがない。
画像がないのは私の調査不足ではなく、ビデオの普及以前という当時の状況からして、この種の番組(生放送)の画像が残っているとは思えない。

だから、紙媒体の資料から間接的に証拠を押さえるしかない。
カルーセルさんの雑誌掲載資料はかなり保存してあるが、量がありすぎて、まだ確認作業をしていない。

そこで、思いついて、青江のママの自叙伝『地獄へ行こか 青江へ行こうか』(1989年)を調べたら、こんな写真が掲載されていた。
青江のママ (11) - コピー.jpg
キャプションには「テレビ朝日の深夜番組に出演(昭和50年代)」とある。
「昭和50年代」は1975~1984年だから、私が押さえたい年代より10年ほど後だが、少なくとも1980年には、トランスジェンダー的な人がテレビに出演していた証拠にはなる。
この時代のテレビ朝日の深夜番組というと、「23時ショー(第2期)」(1977年10月 ~1979年9月)か「トゥナイト」(1980年10月6日 ~1994年3月31日)だろう。

もう1枚気になる写真。
青江のママ (12) - コピー.jpg
キャプションは「黒田征太郎のインタビューを受ける筆者(昭和40年代)」。
中央の青江さんを挟んで右が赤坂「ジョイ」のマダム・ジョイ、左が新宿歌舞伎町区役所通り「狸御殿」の純子ママ。
貴重な「大御所」のスリーショット。

「昭和40年代」は1965~1974年で、今回の調査でターゲットにしている年代。
本文には「テレビに出る時、あたしは『ジョイ』のママと純子を従えて」とあるので、その関連で掲載されている写真だとすると、テレビ取材かもしれない。

そこで気づいたのは黒田征太郎氏。
彼はフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」(1969年11月1日~1971年12月31日)の初代司会者だった。

もしこの写真が「オールナイトフジ」の取材風景だとすると、撮影時期は1969~1971年に限定され、先掲の1980年代の出演写真より遡ることになる。

テレビ・メディアとトランスジェンダーの関係は重要だと思いながら、画像が残っていないという資料的な制約から、今まで手を付けていなかった。
でも、やはり、その時代を生きた者として、できるだけの跡付けはしておかないといけないという気持ちになった。
いろいろたいへんだが、少しずつでも進めていこうと思う。

新宿「千鳥街」ゲイバー「ジミー」のマダム・ジミーさんの消息 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月18日(日)

私が数年前に入手した女装秘密結社「富貴クラブ」の西塔哲会長の写真アルバムにあった新宿「千鳥街」にあったゲイバー「ジミー」のマダムの写真。
西塔会長は「新宿の草分け的存在ばかりでなく、十年衰えを見せない美貌」と評している。
撮影は1964年3月以前。

「女装秘密結社『富貴クラブ』関係写真コレクション(その8)ーゲイボーイの写真ー」として、私のブログに掲載していた。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-09-21-2

今日、そのコメント欄にジミーさんの甥であるAllora さんから書き込みがあった。
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文中の「ジミー」は僕の叔父で、体をこわし名古屋の姉(僕の母)が引き取り、昭和57(1982)年に49歳で亡くなっています。
諸事情で僕が小1から中2まで育ててもらって、店にもちょくちょく子供ながら開店前などに出入りしてました。
昭和医大中退で、寺山修二さんの天井桟敷に毛皮のマリーだったかで出演したり華やかな時代もありましたが、本人にとって晩年は寂しいものだったと思います。
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また、Allora さんはご自分のブログでも叔父さん(ジミーさん)の思い出を記されている。https://plaza.rakuten.co.jp/jinkun311/diary/201706180001/

亡くなられたのは1982年6月18日、その時49歳ということは、1933年頃の生まれで、ご存命なら今年84歳という計算になる。
壮年で亡くなられたのはとても残念だ。

お元気な頃の写真を、私が入手したのもなにかのご縁、心からご冥福をお祈りいたします。

【解説】
「千鳥街」は少なくとも1967年秋までは存在した新宿の飲み屋街で、御苑大通りが新宿通りの南に延長された時に立ち退きになった。
現在、道路と広いグリーンベルトになっている。
1964年頃には6軒のゲイバーがあり、私は「二丁目ゲイタウン」の原点のひとつと考えている。

その内の1軒である「ジミー」は、二幸(現・アルタ)裏の「夜曲」、三丁目映画館街裏(明治通りの1本東側の通り)の「イプセン」に次ぐ、新宿のゲイバーの「草分け」的存在だった。



「発掘」成果いろいろ [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月11日(日)

(1)『朝日新聞』夕刊連載シリーズ「東京・新宿二丁目」
   (2003年12月15日~20日、6回連載)
14年前の新宿二丁目のトピック。
松井玲子ママや、『薔薇族』編集長の伊藤文学さんの顔が見える。
二丁目「ゲイタウン」の景色はあまり変わっていない?
懐かしく思う人もいるのではないだろうか。
朝日新聞20031215~20 (2).jpg朝日新聞20031215~20 (3).jpg
朝日新聞20031215~20 (4).jpg朝日新聞20031215~20 (5).jpg
朝日新聞20031215~20 (6).jpg朝日新聞20031215~20 (7).jpg

(2) ドラァグ・クイーン関係の記事2点
1つ目は、『週刊朝日』1999年7月16日号掲載の「ドラァグクイーン」という記事。
カラーグラビア3頁を使った豪華版で、マーガレット小倉さんを中心に紹介されている。
ドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (1) - コピー.jpgドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (2) - コピー.jpgドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (3) - コピー.jpg

2つ目は、『週刊Spa!』2000年3月22日号掲載。
「マニアのカリスマを求めて」というコーナーが、ドラァグ・クイーンのマーガレット小倉さんを取り上げたもの。
マーガレット小倉『週刊Spa!』20000322) - コピー.jpg
17~18年前の記事。
マーガレットさんには、月曜~水曜に新宿二丁目の「オカマルト」に行けば会えるが、これらの記事を知っている(持っている)人はもう少ないと思う。

(3)「ナニワのニューハーフ」(奥田)菜津子さん
『週刊Spa!』1994年6月29日号の「Naniwa Girls」コーナーで紹介された(奥田)菜津子さん。
当時は北新地のクラブ「O-P-A」に在籍。
1993~1994年に盛り上がった「ナニワのニューハーフ」ブームの担い手の1人。
奥田菜津子(『週刊Spa!』19940629) - コピー.jpg奥田菜津子() (2).jpg
いかにもニューハーフらしい華のある容姿で、私のあこがれだった。
2000年代になって大阪の某バーのカウンターで1度だけ同席して、ご挨拶した。
変わらぬ美貌に目眩がした記憶がある。

(4)銀座ホステス 光岡優さん
実は、今回の「発掘調査」で探していた記事がこれ。

『週刊アサヒ芸能』1985年2月14日号掲載の「悲願10年女を超えた『銀座の玉三郎』」。という記事。
1980年代中頃、「11PM」(日本テレビ系)などの深夜番組にときどき出演していた銀座八丁目のクラブ「パトウ」のホステス、光岡優(みつおか ゆう)さんを紹介したグラビア。
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光岡優(『週刊アサヒ芸能』19850214) (3) - コピー.jpg光岡優(『週刊アサヒ芸能』19850214) (4) - コピー.jpg

光岡さんは、1956年生まれ、明治大学出身で、1977年、モロッコでGeorges Burou博士の執刀で「性転換手術」を受けた。

この記事の直後1985年2月に「女形」という歌をキングレコードから出している。

当時の銀座ホステスらしく、着物のセンスが良く、着姿も美しい方で、やはり私のあこがれだった。
私と同世代だが、今はどうされているのだろう?

(5)矢木沢まりさんの画像
1988年10月、お昼の人気番組「タモリの笑っていいとも」(フジテレビ系)のコーナーとして「Mr.レディの輪」が設けられ、翌1989年にかけて20数名の「ニューハーフ」が登場する。
それまで夜の世界の存在だったニューハーフが昼の「お茶の間」に進出し、1989年には「Mr.レディ」ブーム現象となる。

その「Mr.レディの輪」の第1号として注目されたのが、六本木のニューハーフ矢木沢まり。

彼女は、これをきかっけとなって、映画『Mr.レディ 夜明けのシンデレラ』(東宝、1990年1月)の「ヒロイン」(準主役)に抜擢される。
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今まで映画のビデオ・レーベルしか画像化してなかったので、画像を追加。
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↑「笑っていいとも」に出演した直後、当時は、西麻布「プティ・シャトー」に所属。
 (『FLASH』1988年12月13日号)
矢木沢まり(『FRIDAY』19890721) - コピー.jpg
↑ 映画『Mr.レディ 夜明けのシンデレラ』の制作発表の記事。
 (『FRIDAY』1989年7月21日号)
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↑ 映画、封切り間近の頃。
 (『FLASH』1989年12月12日号)
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↑ ダンスで鍛えた見事な脚線美。
 (『FLASH』1989年12月12日号)

ヨーロッパ中世都市における「男性間性愛」処罰件数 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月7日(水)

明治大学文学部「ジェンダー論」の講義で西洋中世史のゼミに所属する学生さん(3年女子)が教えてくれたこと。

ブルッヘ(ベルギー北西部、フランデレン地域)という都市で1385年から1515年までの131年間に「男性間性愛」の罪で処罰された事例、死刑90件、罰金刑3件、身体刑9件(計102件)。

出典は、マルク・ボーネ著(ブルゴーニュ公国史研究会訳)『中世末期ネーデルランドの都市社会ー近代市民性の史的探究ー』(八朔社、2014年)。

計算してみると、1年0.78件、1.3年に1件。
摘発されて死刑になる率88%。

キリスト教の規範に基づく中世ヨーロッパが、同性愛や異性装にきわめて厳しい社会であることは講義で話しているが、具体的な数字は紹介していなかった。
基本、死刑であることはわかっていたが、摘発数の多さは意外。

西洋史は専門ではないので、こういう細かなところまでなかなか目が届かない。
教えてくれて、ありがとう。


「TSとTSを支える人々の会」(現:TNJ)初期資料を発掘 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

4月23日(日)

必要があって「TSとTSを支える人々の会」(現:TNJ)初期資料を発掘。

「TSとTSを支える人々の会」(現:TNJ)の発足集会の配布資料。
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1996年8月3日。今から21年前。
会場は東京池袋の豊島区民センター。
日本のGID(性同一性障害)自助支援運動の出発点。
講演は山内俊雄氏(埼玉医科大学倫理委員会委員長)による「埼玉医科大学の倫理委員会が出した性転換に対する答申について」。

第2回集会(1996年8月18日)
水民潤子氏「私のライフヒストリーと中国性転換事情」
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第4回集会(1996年9月28日)
優形愛氏「TSと医療カウンセリングの試み」
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第6回集会(1996年10月20日)
三橋順子「TGとしての私」
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これらの「TSとTSを支える人々の会」の初期資料の発掘で興味深い事実が判明。
発足集会(1996年8月3日)と第2回集会(同8月18日)の配布資料には【協力】として「T-GAP」が名を連ねている。
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↑ 発足集会配布資料(1996年8月3日)
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↑ 第2回集会配布資料(1996年8月18日)
「T-GAP」は1990年代半ばに活動していたトランスジェンダー系のHIV予防啓発団体(代表・高梨なおみさん)。
新宿の女装バーにコンドームを配布するなどの活動をしていた。

ところが、第4回(同9月29日)では「T-GAP」の名が消えている。
残念ながら第3回の資料が欠けているが。
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↑ 第4回配布資料(1996年9月29日)

HIV予防啓発団体が、GIDの自助支援グループの発足時には協力していたこと、それがわずか2カ月足らずでもう「手切れ」になったことがが資料によって証明された。
(今までは、畑野とまとさんや私の記憶が根拠だった)


「商業系(プロフェッショナル)」のTとGの戦後史(メモ) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

4月4日(火)

「商業系(プロフェッショナル)」のTとGの戦後の展開を簡単にまとめてみました。

1940年代後半~1950年代
 女装男娼の全盛期。
 (非女装)美少年系男娼が現れるのは1950年代に入ってから。

1950年代前半
 第1次性転換ブーム(クリスチーナ・ジョルゲンセン、永井明子)。

1950年代後半
 ゲイバー・ブーム。
 女装系と美少年系が同じ店に混在していたが、徐々に美少年系が優勢に。

1960年代前半
 「ブルーボーイ」ブーム。
 1963~65年、フランス(パリ)「カルーゼル」の性転換ダンサーが来日公演。

1960年代後半
 新宿2丁目(旧「赤線」エリア)に美少年系ゲイバーが集まり出す。
 女装系ゲイバーは銀座→赤坂→六本木、歌舞伎町に展開し、ショービジネス化が進行。
 両者の地理的分離が進む。 
 第2次性転換ブーム(「ブルーボーイ事件」)。

1970年前後、新宿二丁目「ゲイタウン」の成立。

1980年代
 女装男娼が「ニューハーフ・ヘルス」としてリニューアル
 (1984年「ニューハーフ・ヘルス」を初めて名乗った「元祖ニューハーフクラブ」が台東区入谷に開店)

【文献】
三橋順子「トランスジェンダーと興行-戦後日本を中心に-」
 (『現代風俗2004 興行』 新宿書房 2005年2月 P48~76)
三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷 ―「盛り場」の片隅で―」
 (『現代風俗学研究』12号 現代風俗研究会 東京の会 2006年3月 P1~15)
三橋順子「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」
 (井上章一編著『性欲の文化史 1』講談社 2008年10月 P127~161)
三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書 2008年9月


【報告記録】「GIDの『神話』を『歴史』に引き戻す」 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

3月27日(月)

3月18・19日に札幌医科大学で開催された「GID(性同一性障害)学会 第19回研究大会」のシンポジウム5「ジェンダーの多様性をめぐる神話」における、私の報告の記録です。

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GID(性同一性障害)学会 第19回研究大会(札幌医科大学)
シンポジウム5「ジェンダーの多様性をめぐる神話」(2017年3月19日)

GIDの「神話」を「歴史」に引き戻す
    三橋順子(明治大学)

歴史を学ぶことの役割は、過去を振り返ってたどってきた道を知ることで、現在の立ち位置を確認し、未来への適切な道筋を探すことにあります。私は歴史学を学んだものとして、常にそのことを念頭において研究をしてきました。したがって、誤った歴史認識は不適切な未来を招きかねません。そこで、この報告ではGIDに関わる誤った「神話」を正しい歴史認識に引き戻しておこうと思います。お話するポイントは以下の5点です。

①「日本初」の性別適合手術は埼玉医科大学ではない
第一に「日本初」の性別適合手術は埼玉医科大学ではありません。昨日のレジェンド講演で山内俊雄先生は「公の手術」とおっしゃいましたが、あくまで日本精神神経学会のガイドラインに基づく初めての手術ということです。同じくレジェンド講演をされた原科孝雄先生がなさったのは女性から男性への日本初の手術であり、男性から女性への手術はそれ以前にも行われていました。

性別移行を目的とした造膣手術は、日本医科大学病院で1951年春(4月以降)に永井明(女性名:明子)に対して行われたものが日本最初です。執刀は石川正臣産婦人科教授でした。石川先生はその後日本産婦人科学会の会長を長く務められた重鎮です。これは同年5月15日にイギリスで行われたRobert Cowell(女性名:Roberta)に対する手術より早く、戦後世界最初の転性手術だった可能性が高いと思われます。1950年代、日本の形成外科の技術は、けっして後進的ではなく、世界のトップレベルでした。そのことにもっとプライドを持つべきです。

私は、1990年代後半に原科先生、山内先生が大きな勇気をもって、長らく停滞していた日本の性別移行医療を再開し、新しい時代を開かれたことを、時に直接お話をうかがいながらリアルタイムで見ていました。ですからその功績を否定するつもりはありません。しかし、それ以前に存在した歴史事実は「なかったこと」にせず、しっかり認識すべきだと思います。

永井明子1.jpg 
↑ 永井明子
(『日本週報』1954年11月5日号)
永井明子(『日本観光新聞』19530918)4-2.jpg
↑ 永井明子
(『日本観光新聞』1953年09月18日号)
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↑ Roberta Cowell

②「GID特例法」以前にも戸籍の性別変更は可能だった
第二は、「GID特例法」以前にも戸籍の性別変更は可能だったということです。転性手術にともなう戸籍の続柄変更は、1951~53年に永井明子が、1980年に布川敏が戸籍法113条(訂正)に基づいて男性から女性へ性別変更をしていることが戸籍の写真などから確認できます。他にも戸籍は未確認だが性別訂正の事例が2例ほどあります。

永井さんの事例は、詳しいことはわかりませんが、おそらく手術からあまり都気を置かずに訂正がなされたと思われます。布川さんの事例については、インターセックスを装った訂正ではないのか?と疑問視する人がいましたが、スタンフォード大学の診断書には、はっきり「diagnosis of transsexualism(性転換症の診断)」の記述があり(Bokeは布川さんの源氏名)、疑いは否定されます。
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↑ 永井明子の戸籍  参男→二女、明→明子に訂正
(『日本週報』1954年11月5日号)
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↑ 布川敏さん(『FLASH』1999年3月30日・4月6日号)
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↑ 布川敏の戸籍  長男→長女、敏之→敏に訂正
(『週刊文春』)1981年4月23日号)
布川敏(診断書) (1).jpg
↑ 布川敏の診断書(スタンフォード大学)
(『週刊文春』)1981年4月23日号)
布川敏(診断書) (2).jpg
↑ diagnosis of transsexualism(性転換症の診断)の記述がある。

③「ブルーボーイ事件」は特異事例である
第三は、「ブルーボーイ事件」(1965年10月摘発)は特異事例であるということです。「ブルーボーイ事件」前後の1950~60年代には33例ほどの転性手術の事例が知られています。その内の94%は国内での手術です。にもかかわらず摘発・起訴されたのは「ブルーボーイ」事件ただ1例だけなのです。他の事例は週刊誌などに報道されて公になっているにもかかわらず、警察は動いた形跡がありません。

では、なぜ「ブーボーイ事件」だけが摘発されたかといえば、転性手術が「売春」行為に利用された特異事例だからです。当時は、「売春防止法」完全施行から7年しか経ってなく、警察が「売防法」の抜け道摘発に熱心だった時期で素。ということで、「ブルーボーイ事件」はかなり特異な事例であり、一般化すべきではないと思います。

④「ブルーボーイ」=男娼ではない
第四は、「ブルーボーイ」=男娼ではない、ということです。「ブルーボーイ」は身体を女性化した男性の意味の俗語で、1963年に初来日したフランス・パリの「カルーゼル」のショーダンサーたちに付けられたキャッチコピーです。そういう起源ですから「ブルーボーイ」の職業はショービジネス(ダンサー)が中心でした。1960年代後半には「和製ブルーボーイ」として銀座ローズさんやカルーセル麻紀さんが活躍します。

「ブルーボーイ」の中にセックスワーク(男娼)を仕事にしていた人もいたということです。したがって、日本精神神経学会のガイドライン(第4版)が「男娼(ブルーボーイ)」と表記しているのは誤解を招き不適切です。
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↑ ブルーボーイの来日(第2回公演:1964年)
(「ゴールデン赤坂」のパンフレット:三橋所蔵)
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↑ ブルーボーイの来日(第3回公演: 1965年)
(掲載紙不明 1965年)
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↑ 和製ブルーボーイの活躍(銀座ローズ)
(『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊号)
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↑ 和製ブルーボーイの活躍(カルーセル麻紀)
(『風俗奇譚』1966年4月臨時増刊号)

⑤「暗黒時代」ではない
最後に第五です。1998年の埼玉医科大学の手術以前は、けっして「暗黒時代」ではないということです。今よりずっと困難な環境の中で性別移行を望む人々と、それを助ける医師の真摯な営みがあったことを忘れるべきではありません。それを「闇」呼ばわりするのはあまりに失礼だと思います。

以下、困難な時代に、望みの性別で自分らしく生きようとした先達たちの画像を紹介して、この報告を終えようと思います。
ご清聴、ありがとうございました。

永井明子3(2).jpg 
↑ 永井明子 1951年春、日本医科大学病院でSRS
 (『日本観光新聞』1954年頃)

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↑ 椎名敏江 1955年SRS
 (『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

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↑ 吉本一二三 1961年SRS
(『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)

銀座ローズ(『風俗奇譚』6501S)6.jpg
↑ 武藤真理子(銀座ローズ) 
1962年、大阪曾根崎・荻家整形外科病院でSRS
(『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊号)

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↑ ひばり&江梨子
左・兄(姉)ヒバリ 1967年SRS  右・弟(妹)江梨子 1966年SRS
(『平凡パンチ』1968年5月20日号)

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↑ カルーセル麻紀 1973年、モロッコ・カサブランカでSRS
執刀はDr.ジョルジュ・ブロー
(『平凡パンチ』1967年10月2日号)
モロッコでブロー博士の手術を受けた日本人はカルーセル麻紀が最初ではなく、その前に少なくとも2人いる。

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↑ はるな愛 1995年、大阪・わだ形成クリニックでSRS
(2009年11月22日、撮影:三橋順子)

【参考文献】
三橋順子「性転換の社会史(1) -日本における「性転換」概念の形成とその実態、1950~60年代を中心に-」
三橋順子「性転換の社会史(2) -「性転換」のアンダーグラウンド化と報道、1970~90年代前半を中心に-」
(いずれも、矢島正見編『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部、2006年)
三橋順子「ゲイボーイ、シスターボーイ、ブルーボーイ」
 (『性の用語集』 講談社 2004年)

【質疑応答】
コメントしてくださった〇〇さんとは、新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」で一緒でした。〇〇さんのような女装世界に身を置いた方が、性同一性障害の世界で肩身の狭い思いをされてきたことは、よく存じています。GID学会の懇親会で、私のところにそっと寄ってきて「私が新宿の女装の店に通っていたこと、黙っていてください」と懇願してきた方もいました。もちろん黙っていますが。
どうしてこんなことになったのか、それは日本のGID治療が、ニューハーフ世界や女装世界など既存のトランスジェンダーコミュニティと断絶した形で始まったからです。
「ガイドライン」第1版では「職業的利得条項」によって商業的なトランスジェンダーであるニューハーフは診断・治療の対象から排除されました。これは明らかな医療差別です。
そうした断絶と排除によって、既存のトランスジェンダー世界で長年積み重ねられてきた男性から女性への性別移行のノウハウやテクニックが継承されず、活かされることがなかった。これは間違いなく損失であり、日本のGID医療の大きな誤りだったと思います。
このことについては、いつか機会をいただけたら、お話したいと思います。

【報告者略歴
1955年、埼玉県生まれ。性社会・文化史研究者。明治大学、都留文科大学、群馬大学医学部など非常勤講師。
専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史学、とりわけ性別越境(トランスジェンダー)の社会・文化史。
著書に『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)、共編著に『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部、2006年)、『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社 2015年)。主な論文に「性と愛のはざま-近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う-」(『講座 日本の思想 第5巻 身と心』岩波書店、2013年)、「性別越境・同性間性愛文化の普遍性」(『精神科治療学』31巻8号 星和書店 2016年)など。

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