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11月27日(月)パワポ資料の補充作業 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月27日(月)

10時半、起床。

週末の長旅の疲れが残っているので、自宅で過ごす。

資料ファイルを「発掘」して、12月10日「G-front関西」での講演「大阪の女装文化」のパワーポイント資料の補充作業。

1960~70年代の大阪の女装文化、プロのお店もアマチュア女装のお店も、性風俗系月刊誌(『風俗奇譚』)や一般週刊誌の記事で、だいたい起源や展開が追える。

しかし、非女装の男性同性愛の店の展開については、ほとんど情報がないに等しく、東京よりさらに解明が困難。

私の力では無理なので、いさぎよく、あきらめた。
地元研究者の地道な調査に期待。
夏子ママ(女性自身19671016) (2) - コピー.jpg 夏子ママ(女性自身19671016) (3).jpg
↑ 1960年代後半に週刊誌で話題になった「夏子乃店」の夏子ママ。
(『女性自身』1967年10月16日号)


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大阪の女装文化 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月24日(金)

12月10日に「大阪の女装文化」について講演をするので、画像資料を整理。
ちょっとだけ、先行紹介。

(1)1947年(昭和22)頃の大阪・阿倍野旭町の女装男娼を描いた絵。
戦前は西成・釜ヶ崎の木賃宿街で活動していた男娼たちが1945年3月13日夜の大阪大空襲で焼け出され、戦災を免れた東800mほどの阿倍野・旭町に拠点を移した。
阿倍野旭町の男娼.jpg
出典:南里弘「男娼を衝くー南大阪のおかま案内ー」(『奇譚クラブ』3号 1948年1月)

(2)1948年(昭和23)頃、大阪の西成区東田町(現:西成区太子)のアパートに19人の男娼が集住して、協力して営業をしていた。
東田町の男娼.jpg
もう70年近く前のこと。
この写真の人、当時20歳でも現在89歳。
ご存命だろうか?

出典:「男娼協同組合」(『奇譚クラブ』1952年3月号)

(3)大阪・北区曾根崎にあったBar「GENET(ジュネ)」の名刺。
1953年に開店した大阪におけるゲイバーの元祖的な店。
fu6-36 - コピー.jpg
名刺は1960年代初頭のものと推測され、写真はお遊ママだと思われる。
現存するのはこの1点のみ?

(4)1960年代、大阪南区法善寺横丁にあったBar「おひろ」の写真名刺。
fu5-23-2(2).jpgfu5-23(2).jpg
名刺の裏全面が写真になっている。
写っているのは、おひろママだと思われるが、確定できない。

(5)1960年代前半、大阪の高級ゲイバー「なるしす」のパンフレット。
全12頁で、店主のマダム順子以下、在籍者全員の写真が掲載された豪華版。
おそらく上客のお土産用と思われる。
「なるしす」パンフレット - コピー.jpg
「なるしす」マダム順子 (1) - コピー.jpg
↑ 店主:マダム順子の艶姿

(6)1960年代、「ジュネ」「カルーセル」とともに大阪ゲイバー「御三家」と呼ばれた「なるしす」(南区坂町:順子ママ)の皆さん。
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1965年、南区千年町のビルに移転し、新店舗は専用の舞台と照明設備をもち、大阪におけるショーパブの元祖となった。
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大阪の女装文化 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月6日(日)

昭和戦前期、女装男娼の最大拠点は大阪「釜ヶ崎」だった(戦後、阿倍野旭町に移動)。
1950年代後半~60年代、女装系のゲイバーは東京より大阪の方が盛んだった。
アマチュアの女装者が集まる場所ができたのも東京より大阪の方が早かった。
高度経済成長期が終わる70年代の前半くらいまでは、大阪の方が女装文化の「先進地帯」だったのは間違いない。

ところが、その後、東京がだんだん追いつき、1980年代になるとはっきり優位になる。
1990年代前半に「ナニワのニューハーフ」が、後半に「新幹線女装族」がブームになるが、それも一時のことで、以後はますます東京が女装文化発信の中心になっていく。

経済都市として栄えた大阪の没落、東京との経済力の逆転が、そのまま「女装史」に投影している。

全体的な見取り図は上記のようになるが、まだまだわからないことが多い。
たとえば、女装系のゲイバーが盛んだった大阪は、東京に比べて非女装のゲイバーの主流化が遅れた可能性が高い。
1960年代末~70年代、東京で「新宿二丁目・ゲイタウン」が成立したのと見合う現象が大阪であったのだろうか?

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「性をめぐるアーカイブの世界」(2017.05.04) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月2日(木)

5月4日に「東京レインボープライド 2017」の一環として新宿・「AISOTOPE LOUNGE」で行われたトークイベント「性をめぐるアーカイブの世界」でお話した内容です。

大勢の方にご来場いただきましたが、来られなかった方からの「ぜひ内容紹介を・・・」というご要望が寄せられました。
多忙でなかなか着手できず半年が経過してしまいましたが、ようやく、当日、紹介した全資料の画像を入れて、アップいたします。
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東京レインボープライド 2017 トークイベント 
2017.05.04(新宿・「AISOTOPE LOUNGE」)
性をめぐるアーカイブの世界
  -過去を未来に伝える-
         三橋 順子(性文化社会史研究者・明治大学非常勤講師)

1 資料収集のスタートは個人コレクション
(0) 三橋順子の収集物
(1) 太田碧(おおたぺき)コレクション
太田碧2 - コピー.jpg
・ 女装クラブ「エリザベス会館」の長老的女装者。
・ 家が近かった(徒歩5分)縁で、自宅訪問。
・ 生前に「ファアイル」数冊と保存状態最高の『くいーん』誌』60冊を譲渡される。
・ 1994年(平成6)10月11日逝去。
・ ご遺族から連絡があり『風俗奇譚』約80冊を受け取る。
・ 「エリザベス会館」最初期の資料・松原留美子関係を含む。
エリザベス会館広告(1979年) (1) - コピー.jpgエリザベス会館広告(1979年) (2) - コピー.jpg    
↑ 最初期の「エリザベス会館」のパンフレット
エリザベス会館2 (2).jpg
↑ 最初期の「エリザベス会館」入場券(1979年9月)
エリザベス会館1  (3).jpg
↑ 1979年8月25日の開店から11月までの3カ月足らずだけ、神田須田町2丁目の3階建てビルにあった。

(2) 山崎淳子コレクション
・ 1950年代後半に活動した日本初のアマチュア女装の秘密結社「演劇研究会」の会員(会員番号48)。
・ 1993年頃、「くいーん」誌の文通欄で知り合う。
・ 1997年頃、1950年代の女装同人誌『演劇評論』、1960~70年代の週刊誌の女装・性転換記事を大量に贈与される。
・ かなり社会的地位のある方。
・ 2015年逝去。

ブルーボーイ1(1964年11月第2回公演パンフレット。モデルはバンビ) (3).jpg
↑ 「ブルーボーイ」第2回公演パンフレット
(1964年11月:ゴールデン赤坂)
山崎淳子コレクション (1) - コピー.JPG
↑ 週刊誌の切り抜き
紙の劣化が進んでいる。皺を延ばし、破損を補修する。
大学の博物館学芸員コースで学んだ資料整理保存法が役にたった。
山崎淳子コレクション (2) - コピー.JPG
↑ 掲載紙・掲載時期が不明のものが多く、推定に苦労した。
大学院で学んだ文献学の知識が役に立った。
山崎淳子コレクション (4) - コピー.JPG
↑ 「ブルーボーイ事件」関係の記事も多い。
山崎淳子コレクション (3) - コピー.JPG
↑ 「富貴クラブ」を取材した記事。
国会図書館や大宅壮一文庫にもない記事がかなりある。

(3) 松葉ゆかりアルバム
1971年8月、花園神社で - コピー.jpg
・ 1960~70年代に活動した女装秘密結社「富貴クラブ」の会員。
・ 新宿女装コミュニティの原点、女装バー「ふき(梢)」のチーママ。
・ 1990年代、「エリザベス会館」の重鎮。
・ 「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」(代表:矢島正見中央大学教授)のライフヒストリー調査の過程で秘蔵アルバムをコピーさせていただく。
・ 新宿女装コミュニティ形成期の貴重な資料。
松葉ゆかり1.jpg 松葉ゆかり3.jpg
(左)1971年3月、都電廃線跡で。 (右)1975年お正月、日本髪で。
1972年1月、新宿の料理屋で新年会(左から寿美子、弥生、洋子、千賀子、典子、ゆかり).jpg
↑ 1972年1月、新宿の料理屋で新年会(左から寿美子、弥生、洋子、千賀子、典子、ゆかり)

(4) 美島弥生コレクション 
美島弥生1 (2).jpg
・ 「演劇研究会」の会員(会員番号56)。
・ 「富貴クラブ」の有力会員。
・ 1981年、名古屋に女装クラブ「レディス美島」をオープン。
  長年にわたって中京の女装世界を牽引。
・ 「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」のライフヒストリー調査の過程で「美島」に蓄積された大量の記事スクラップ資料をコピーさせていただく。
美島弥生コレクション (1) - コピー.JPG
↑ やはり、出典不明の記事が多く、整理・資料化に苦労した。
美島弥生コレクション (2) - コピー.JPG
↑ これは出典メモがある。
結婚式1(美島弥生) (2).jpg  ↑ 同性結婚式は、ディズニー・シーのレズビアン・カップルが最初ではない。

(5) 西塔哲(「富貴クラブ」会長)旧蔵アルバム
西塔哲.jpg
・ 昭和初期から末期まで女装者愛好一筋の人生。
・ 女装秘密結社「富貴クラブ」の創設者にして会長。
・ 「富貴クラブ」解散(1990年)の際、会に蓄積された大量の写真(ネガ、プリント)は焼却されたが、西塔会長の個人アルバムが「残党」の人によって持ち出され、保管。
・ 2013~14年「残党」の1人、Hさんから寄贈される。
・ 写真プリント約300点。
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(左)新宿千鳥街「ポケット」のしげみさん (右)海軍水兵上がりのゲイボーイみどりさん
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(左)榊光子さん     (右)安田美恵さん
1960年代までは女装者は和装が主流。
富貴クラブ6(1968年).jpg fu5-8 (2).jpg
↑ 成人式の女装者
(左)1968年鎌倉の写真館で  (右)1970年代前半?

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↑ 外出する女装者 小野悠子さん(大阪・桜宮橋) 
富貴クラブ5(1973年).jpg
奥多摩ドライブ旅行(1972年11月)

「あなたなら、私の思いを解ってくれると思うから」と、大切にされていたものを託してくださった先輩たちの思いに応えるためにも、研究資料として活用し、未来に伝える責務。

2 現物資料をどう伝えるか
・ 「演劇研究会」の会誌『演劇評論』(全25号24冊)「演研通信」(全6号?)
・ 山崎淳子コレクションで『演劇評論』10冊、「演研通信」4号分、会員名簿1冊(1956年5月)
・ 美島弥生コレクションで7冊、2号分をコピー。
・ 「演研通信」は完収と思われるが、 『演劇評論』 は24冊中17冊。
・ 現物がこの世に残るのは1~2点。
・ 未収集の7号分は、もうこの世に存在しない?
演劇評論(山崎淳子さん寄贈)(2).JPG
↑ 『演劇評論』の現物10冊
演劇評論23・24合併号(1957年11月).jpg  
↑ 『演劇評論』23・24合併号(1957年11月) 
演劇通信6-1(2).jpg
↑ 『演研通信』6号の現物。劣化が激しい
演劇評論21号の口絵.jpg
↑ 『演劇評論』21号の口絵「夏化粧」    
演劇評論22・23合併号の口絵.jpg
↑ 『演劇評論』22・23合併号の口絵「朝化粧」

3 保全が必要なのは古い資料だけではない
・ 消えゆく「性同一性障害」概念。
 (2018年、WHOの疾病リストICD-11の施行で完全消滅)
・ 初期の「性同一性障害」関係資料の保全が不十分。
  ① 初期の当事者運動を担った「TSとTSを支える人の会」(現:TNJ)」の例会資料
  ② 「GID研究会」(現:GID学会)の研究大会予稿集
・ 揃いで持っている人は意外に少ない。ほとんどいない?
TNJ第1回(19960803).JPG
↑ 「TSとTSを支える人の会」の第1回(発足) 1996年8月3日
TNJ第2回(19960818)2.JPG
TNJ第4回(19960929)2.JPG
(上)第2回 (下)第4回
【協力】から「T-GAP」が消える。

Poco a poco7(1996).JPG Poco a poco8(1997).JPG  
↑ (G-FRONT関西)『Poco a poco』
(左)7号(1996年秋冬)    (右)8号(1997年春夏)
レズビアンのための読書案内(1994年)1.JPG レズビアンのための読書案内(1994年)2.JPG
↑ 『レズビアンのための読書案内』(1994年:大阪)
(左)表紙  (右)内扉

「語り」を資料化していく必要性
戦後日本女装・同性愛研究(2006) (2).jpg 日本Lばなし.jpg  
(左)矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部、2006年)
(右)『日本Lばなしー日本のレズビアンの過去・現在・未来をつなぐ』(パフスクール、2017年)

まとめ
・ しっかり資料保全
・ 資料に基づいて…
・ ちゃんと分析・研究

過去を知れば、現在の立ち位置がわかり、未来が見えてくる

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ゲイの歴史学の課題 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

8月27日(日)
(続き)
13時半、渋谷猿楽町の「アマランス ラウンジ」へ。
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ドキュメンタリー映画「Stonewall Uprising」(2010年)を見る(2度目)。
映画の感想(↓)
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2017-07-21-2

休憩の後、、長谷川博史さんと畑野とまとさんのトークライブ(MCはEdoさん)を聴く。
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映画を最初に見た時、「『Stonewall蜂起』(1969年)の頃、日本の同性愛者たちは、どうしていたのだろう?」という疑問をもった。

1969年というと、新宿二丁目の「ゲイタウン」の形成期で、急速にゲイバーの数が増えていく時期に相当する。

しかし、その具体像、つまり、何という店が、いつ、どこに開店したかは、ほとんどわかっていないようだ。
大御所(大ベテラン)の長谷川さんでさえも、まだ二丁目に来ていない。

二丁目に「ゲイタウン」が形成されるまで(~1960年代)の地域の歴史は、私ができるだけ調べて明らかにしようと思っている。

しかし、「ゲイタウン」が形成されてしまうと、一般の文献では追跡できなくなってしまう。
「ゲットー化」は、外部の人間にとっては「不可視化」なのだ。
やはり、内部のゲイ同人誌と当事者の聞き取り調査で明らかにしていくしかない。
でも、それは、ゲイではない私にはほとんど不可能なことだ。

しかし、日本のゲイの歴史学の大きな課題であり、誰かがやらなければいけない仕事だと思う。
そして、聞き取り調査のことを考えると、残されている時間は多くない。

17時、Edoさんが「懇親会いかが」と誘ってくださったが「猫のご飯を作らないといけないので」と言って辞去。

ここだったら、渋谷駅に戻るよりは、と思い、代官山駅を目指す。
ところが、少し足元がふらつく。
やっぱり、暑い時の昼間にお酒を飲んでは駄目だ。
なんとか代官山の駅に着いて、東急東横線に乗車。
(続く)

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男色喫茶・酒場「イプセン」の位置 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

8月13日(日)

伏見憲明さんとの対談「新宿二丁目ができるまで」に出てくる、新宿3丁目にあった男色喫茶・酒場「イプセン」。
http://aday.online/2017/08/09/oshiete-6/
イプセン - コピー.jpg
↑ モダンな外壁、「イプセン」は2階で(看板の位置が高い)、1階は「ロア」という店だった(写真は伏見憲明さん提供)。

「イプセン」は、1951年(昭和26)開店(伏見さんが店主から聞き取り)。
『内外タイムス』1953年(昭和28)7月23日号に「男色酒場I」として紹介された。
内外タイムス19530723 (2) - コピー.jpg
内外タイムス19530723 (3) - コピー.jpg
↑ 看板に「イプセン」と読める。

『風俗草紙』1954年1月号掲載の、かびや・かずひこ「続・男色喫茶店」にも、紹介されている。

1965年刊行(1963~64年現況)の住宅地図では、明治通り東側(「伊勢丹」の向かい)の映画館街の裏通り、「新宿大映」(現在は「コメ兵」)の裏手に「喫茶イプセン」とある。
イプセン(1965) (2) - コピー.JPG
「バー ロア」と同じ区画に書かれている。
1階が「ロア」で2階が「イプセン」。
イプセン(1965) (3) - コピー.JPG

現在は、住宅地図の「トルコかぶき」「喫茶イプセン・バーロア」「旅館文園」「バーエルザ・バーマム」の範囲が「第6三和ビル」になっていて、1階にはパチンコ店が入っている。
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↑ 現況(2017年8月8日撮影)。
「イプセン」があったのは、画面中央左寄り「新装開店」ののぼりが立っているあたりか。


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年表を作る [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

7月13日(木)

年表を作るって、すごく大変なのだ。

年表は歴史事実で構成しなければならないから、まず、事実関係を調べないといけない。
それには、まず膨大な文献を集めて、読み込み、事実を確定していけなければならない。

その次に、どの事実を年表に記載するかの取捨選定作業になる。
これがまた大変。
スペースがあるのなら、集めたデータを全部載せてしまった方がよほど簡単だが、実際にはそうもいかない。

私は、2000年に「戦後日本トランスジェンダー社会史年表」を作成した(『戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史Ⅰ』 中央大学矢島研究室、2000年3月、 P24~91)。
1945年~1999年までの、トランスジェンダーに関するできる限り詳細な年表(A4版68頁)だが、作業にはまるまる1年を要した。

その年表に基づいて「戦後日本トランスジェンダー社会の歴史的変遷の素描」(同上、P6~23)を書き、さらにそれを基にして、「日本トランスジェンダー略史」(米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言-性別の自己決定権と多様な性の肯定-』社会批評社、2003年5月、P96~129)をまとめた。

そして、2000年代の分を加筆して「日本トランスジェンダー小史 ー先達たちの歩みをたどるー」(『現代思想』2015年10月号 青土社、2015年10月、P218~230)を書いた。
戦後日本におけるトランスジェンダーの歴史の大要は、これでたどることができる。

年表は1999年で止まっているが、2000年以降の分を増補するとなると、すごく大きな作業量になる。
1999年以前の分も、新たな事実がいろいろ判明しているので、本当は訂正・加筆をしたい。
ただ、私にはそこに振り向ける気力と体力、そして時間がもうない。

口はばったいが、日本のトランスジェンダーは自分たちの先輩たちが為してきたこと、自分たちがたどってきた道筋(歴史)を明らかにする努力をそれなりに積み重ねてきた。

それに対して、日本のゲイ、レズビアンは、長らく自分たちの歴史に関心を抱かず、それを明らかにする努力を怠ってきた。
だから、現在でも、せいぜい略年表レベルのものしかなく、ちゃんとした通史が書けない。

今からでも、まだ間に合う。
日本のゲイ、レズビアンが、自分たちの歴史に関心を持ち、その歴史を明らかにし、詳細な年表を作る作業に取り組んでほしい。

歴史を明らかにすることは、現在の自分たちがプライドを抱き、未来への道筋を明らかにすることにつながるのだから。





テレビ・メディアとトランスジェンダー(1960年代後半~1980年代) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月30日(金)

明治大学文学部「ジェンダー論」の第11講は「テレビ・メディアとジェンダー(1)―描かれるもの、消されるもの、操作されるイメージ―」。
そこに、今年度から「テレビ・メディアとトランスジェンダーの歴史」というパートを入れてみた。
通史的に述べる準備もないし、時間的な余裕もないので、トピック的な「パイロット版(試作版)」だが。

(1)1960年代後半~1980年代
 ・ テレビ放送開始(1953年)10数年後の1968年頃には、もうトランスジェンダー的な人が「11PM」(日本テレビ系)などの深夜番組に出演していた。
  (例)カルーセル麻紀、青江のママ、光岡優(銀座ホステス)
   → 欧米諸国に比べて格段に早い。
   → 「倫理規定」の制約で深夜枠しか出られなかったが・・・。
   → 「変わった人」ではあったが、必ずしも「笑いの対象」ではなかった。

「1968年」としたのは、私が中学生の時(1968~1970年)、テレビの深夜番組(おそらく「11PM」)にカルーセル麻紀さんが出ていた記憶があるからだ。
さらに、1968年は「第二次性転換ブーム」だったので、この年と推測した。

ここで大事なことは、「欧米諸国に比べて格段に早い」ということ(おそらく20年くらい)、そして、「変わった人」ではあったが、必ずしも「笑いの対象」ではなかったということ。

ただ、記憶だよりで証拠(映像)がない。
「そんなはずはない」「エビデンス(証拠)を示せ」「記憶違いだ!」「嘘だ!」と言われてしまうと反論のしようがない。
画像がないのは私の調査不足ではなく、ビデオの普及以前という当時の状況からして、この種の番組(生放送)の画像が残っているとは思えない。

だから、紙媒体の資料から間接的に証拠を押さえるしかない。
カルーセルさんの雑誌掲載資料はかなり保存してあるが、量がありすぎて、まだ確認作業をしていない。

そこで、思いついて、青江のママの自叙伝『地獄へ行こか 青江へ行こうか』(1989年)を調べたら、こんな写真が掲載されていた。
青江のママ (11) - コピー.jpg
キャプションには「テレビ朝日の深夜番組に出演(昭和50年代)」とある。
「昭和50年代」は1975~1984年だから、私が押さえたい年代より10年ほど後だが、少なくとも1980年には、トランスジェンダー的な人がテレビに出演していた証拠にはなる。
この時代のテレビ朝日の深夜番組というと、「23時ショー(第2期)」(1977年10月 ~1979年9月)か「トゥナイト」(1980年10月6日 ~1994年3月31日)だろう。

もう1枚気になる写真。
青江のママ (12) - コピー.jpg
キャプションは「黒田征太郎のインタビューを受ける筆者(昭和40年代)」。
中央の青江さんを挟んで右が赤坂「ジョイ」のマダム・ジョイ、左が新宿歌舞伎町区役所通り「狸御殿」の純子ママ。
貴重な「大御所」のスリーショット。

「昭和40年代」は1965~1974年で、今回の調査でターゲットにしている年代。
本文には「テレビに出る時、あたしは『ジョイ』のママと純子を従えて」とあるので、その関連で掲載されている写真だとすると、テレビ取材かもしれない。

そこで気づいたのは黒田征太郎氏。
彼はフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」(1969年11月1日~1971年12月31日)の初代司会者だった。

もしこの写真が「オールナイトフジ」の取材風景だとすると、撮影時期は1969~1971年に限定され、先掲の1980年代の出演写真より遡ることになる。

テレビ・メディアとトランスジェンダーの関係は重要だと思いながら、画像が残っていないという資料的な制約から、今まで手を付けていなかった。
でも、やはり、その時代を生きた者として、できるだけの跡付けはしておかないといけないという気持ちになった。
いろいろたいへんだが、少しずつでも進めていこうと思う。

新宿「千鳥街」ゲイバー「ジミー」のマダム・ジミーさんの消息 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月18日(日)

私が数年前に入手した女装秘密結社「富貴クラブ」の西塔哲会長の写真アルバムにあった新宿「千鳥街」にあったゲイバー「ジミー」のマダムの写真。
西塔会長は「新宿の草分け的存在ばかりでなく、十年衰えを見せない美貌」と評している。
撮影は1964年3月以前。

「女装秘密結社『富貴クラブ』関係写真コレクション(その8)ーゲイボーイの写真ー」として、私のブログに掲載していた。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-09-21-2

今日、そのコメント欄にジミーさんの甥であるAllora さんから書き込みがあった。
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文中の「ジミー」は僕の叔父で、体をこわし名古屋の姉(僕の母)が引き取り、昭和57(1982)年に49歳で亡くなっています。
諸事情で僕が小1から中2まで育ててもらって、店にもちょくちょく子供ながら開店前などに出入りしてました。
昭和医大中退で、寺山修二さんの天井桟敷に毛皮のマリーだったかで出演したり華やかな時代もありましたが、本人にとって晩年は寂しいものだったと思います。
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また、Allora さんはご自分のブログでも叔父さん(ジミーさん)の思い出を記されている。https://plaza.rakuten.co.jp/jinkun311/diary/201706180001/

亡くなられたのは1982年6月18日、その時49歳ということは、1933年頃の生まれで、ご存命なら今年84歳という計算になる。
壮年で亡くなられたのはとても残念だ。

お元気な頃の写真を、私が入手したのもなにかのご縁、心からご冥福をお祈りいたします。

【解説】
「千鳥街」は少なくとも1967年秋までは存在した新宿の飲み屋街で、御苑大通りが新宿通りの南に延長された時に立ち退きになった。
現在、道路と広いグリーンベルトになっている。
1964年頃には6軒のゲイバーがあり、私は「二丁目ゲイタウン」の原点のひとつと考えている。

その内の1軒である「ジミー」は、二幸(現・アルタ)裏の「夜曲」、三丁目映画館街裏(明治通りの1本東側の通り)の「イプセン」に次ぐ、新宿のゲイバーの「草分け」的存在だった。



「発掘」成果いろいろ [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月11日(日)

(1)『朝日新聞』夕刊連載シリーズ「東京・新宿二丁目」
   (2003年12月15日~20日、6回連載)
14年前の新宿二丁目のトピック。
松井玲子ママや、『薔薇族』編集長の伊藤文学さんの顔が見える。
二丁目「ゲイタウン」の景色はあまり変わっていない?
懐かしく思う人もいるのではないだろうか。
朝日新聞20031215~20 (2).jpg朝日新聞20031215~20 (3).jpg
朝日新聞20031215~20 (4).jpg朝日新聞20031215~20 (5).jpg
朝日新聞20031215~20 (6).jpg朝日新聞20031215~20 (7).jpg

(2) ドラァグ・クイーン関係の記事2点
1つ目は、『週刊朝日』1999年7月16日号掲載の「ドラァグクイーン」という記事。
カラーグラビア3頁を使った豪華版で、マーガレット小倉さんを中心に紹介されている。
ドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (1) - コピー.jpgドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (2) - コピー.jpgドラァグクイーン(『週刊朝日』19990716) (3) - コピー.jpg

2つ目は、『週刊Spa!』2000年3月22日号掲載。
「マニアのカリスマを求めて」というコーナーが、ドラァグ・クイーンのマーガレット小倉さんを取り上げたもの。
マーガレット小倉『週刊Spa!』20000322) - コピー.jpg
17~18年前の記事。
マーガレットさんには、月曜~水曜に新宿二丁目の「オカマルト」に行けば会えるが、これらの記事を知っている(持っている)人はもう少ないと思う。

(3)「ナニワのニューハーフ」(奥田)菜津子さん
『週刊Spa!』1994年6月29日号の「Naniwa Girls」コーナーで紹介された(奥田)菜津子さん。
当時は北新地のクラブ「O-P-A」に在籍。
1993~1994年に盛り上がった「ナニワのニューハーフ」ブームの担い手の1人。
奥田菜津子(『週刊Spa!』19940629) - コピー.jpg奥田菜津子() (2).jpg
いかにもニューハーフらしい華のある容姿で、私のあこがれだった。
2000年代になって大阪の某バーのカウンターで1度だけ同席して、ご挨拶した。
変わらぬ美貌に目眩がした記憶がある。

(4)銀座ホステス 光岡優さん
実は、今回の「発掘調査」で探していた記事がこれ。

『週刊アサヒ芸能』1985年2月14日号掲載の「悲願10年女を超えた『銀座の玉三郎』」。という記事。
1980年代中頃、「11PM」(日本テレビ系)などの深夜番組にときどき出演していた銀座八丁目のクラブ「パトウ」のホステス、光岡優(みつおか ゆう)さんを紹介したグラビア。
光岡優(『週刊アサヒ芸能』19850214) (1) - コピー.jpg
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光岡優(『週刊アサヒ芸能』19850214) (3) - コピー.jpg光岡優(『週刊アサヒ芸能』19850214) (4) - コピー.jpg

光岡さんは、1956年生まれ、明治大学出身で、1977年、モロッコでGeorges Burou博士の執刀で「性転換手術」を受けた。

この記事の直後1985年2月に「女形」という歌をキングレコードから出している。

当時の銀座ホステスらしく、着物のセンスが良く、着姿も美しい方で、やはり私のあこがれだった。
私と同世代だが、今はどうされているのだろう?

(5)矢木沢まりさんの画像
1988年10月、お昼の人気番組「タモリの笑っていいとも」(フジテレビ系)のコーナーとして「Mr.レディの輪」が設けられ、翌1989年にかけて20数名の「ニューハーフ」が登場する。
それまで夜の世界の存在だったニューハーフが昼の「お茶の間」に進出し、1989年には「Mr.レディ」ブーム現象となる。

その「Mr.レディの輪」の第1号として注目されたのが、六本木のニューハーフ矢木沢まり。

彼女は、これをきかっけとなって、映画『Mr.レディ 夜明けのシンデレラ』(東宝、1990年1月)の「ヒロイン」(準主役)に抜擢される。
Mr.レディー 夜明けのシンデレラ(1990).jpg
今まで映画のビデオ・レーベルしか画像化してなかったので、画像を追加。
矢木沢まり(『FLASH』19881213) - コピー.jpg
↑「笑っていいとも」に出演した直後、当時は、西麻布「プティ・シャトー」に所属。
 (『FLASH』1988年12月13日号)
矢木沢まり(『FRIDAY』19890721) - コピー.jpg
↑ 映画『Mr.レディ 夜明けのシンデレラ』の制作発表の記事。
 (『FRIDAY』1989年7月21日号)
矢木沢まり(『FLASH』19891212) (1) - コピー.jpg
↑ 映画、封切り間近の頃。
 (『FLASH』1989年12月12日号)
矢木沢まり(『FLASH』19891212) (2) - コピー.jpg
↑ ダンスで鍛えた見事な脚線美。
 (『FLASH』1989年12月12日号)

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