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昭和29年(1954)の東京における男娼の概況 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月27日(日)
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「男娼の異常性愛調査」は、『風俗クラブ』調査部の名義で同誌昭和29年(1954)5月号(1巻2号)に掲載された、1954年(昭和29)における東京の男娼についての調査。
戦後混乱期=連合軍占領期(1946~1951年)の男娼についてのルポルタージュは少なくないが、占領を脱し社会生活も安定を取り戻し高度経済成長の入口に立った1955年(昭和30)前後の東京の男娼の状況を観察したレポートはほとんどなく、その点、貴重である。
ただ、このレポートの後半の男娼の性愛調査は、自己愛、展覧性(露出性)、汚物愛など関心が著しく偏っていてあまり使えない。
そこで、前半の「一般的調査」(誘客場所、人数、土地土地の性格)を紹介する。
その上で、簡単な【註】と【感想】を付した。

なお、戦後日本の女装男娼については、以下の論文・考察がある。
さらに詳しく知りたい方は、参照していただければ幸いに思う。

三橋順子「レンコン」
 (井上章一&関西性欲研究会著『性の用語集』 講談社 2004年12月 )
三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷-盛り場の片隅で-」
 (『現代風俗学研究』12号 現代風俗研究会 東京の会 2006年3月)
三橋順子「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」
 (井上章一編著『性欲の文化史 1』講談社 2008年10月)

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(1) 新橋、有楽町、銀座界隈
有楽町銀座周辺では、東京駅から有楽町に至る間の歩道、並に東京駅八重洲口の八重洲ホテル附近に、夜の十時ごろから終電ごろまでにかけて、凡(およ)そ十二、三人の男娼が立っている。
又、新橋では、駅東口近辺に亘って十数人が誘客している。
この一帯の男娼は、男姿のものは一人もなく、すべて女装で、和装洋装好み好みの装いである。それらの服装は他土地の男娼のそれに較べてズンとすぐれている。見掛けのみでなく、質も上物の衣裳を品よく着こなしている。これは彼らにとって、上客を拾うための重要なるモトデ」であるからだ。
容貌も一通り粒が揃っていて、中には女をもしりえに瞠若たらしめるようなのがいる(註1)。そしてまた、一体に、客に対する「カン」が鋭い。すなわち、男色愛好者とそうでない者とを、完全に見別けることができるという。

(2) 上野
何といっても男娼の本場であり、その発祥の地であるだけに、数が多く、約六十人。
彼らの誘客場所は、都電山下停留所(註2)ぎわの、上野公園入口の辺から、そのあたりの不忍池畔に散在的に立っている。
服装は、女装の者もいるが、ちかごろでは男装、つまり生地のままの男姿の者が、圧倒的に多い。
このことは何に起因しているか―それは後項の報告を見れば氷解できる。(註3)
ここの男娼が客を伴う場所は、ショートの場合は池の端の安待合などを利用し、又、泊まり客は、自分の住居に伴う。
彼らの住居は、最も多いのは下谷万年町(註4)である。昔は貧民窟の代名詞のようになっていた。この裏町に、或は単独で二階借りするのもあり、或は一戸を持って夫婦生活―男同士の夫婦もあり、又は異性の妻を持っているものもいる―をいとなむあり、或は又室数の多い家を借りて、数人の仲間で同居しているのもあり、各種各様である。次は、上野から車坂(註5)にかけての裏町、浅草山谷(註6)の簡易旅館、深川高橋(註7)の同じく安宿等々である。
 
(3) 新宿
(昭和)二十四年以前は数名を数うるのみであったが、いまでは、都電終点(註8)近くに十数人ほどが誘客している。
これは二十四年夏(註9)の上野における警視総監殴打事件以来、山の取締まりが厳になったために、あの地の男娼が、各自思い思いに他の盛り場へ散っていき、それが新宿にも流れて来てから、現在のように多くなったわけである。
服装は殆どが女装である。このシマの男娼の客には、場所柄其道のシロウトが少くない。したがって、男娼を真正の女、つまりパンスケと勘違いして買うものが、往々にあるといわれている。

(4) 浅草
この土地にはプロ男娼はいつもきわめて数少く、数名といたタメシはない。現在でも一人二人の者がときどき木馬館裏手の暗闇に現れているにすぎない。
浅草では、男娼稼ぎは成り立たないのである。なぜかというと、男娼を買うというのは、やむにやまれぬ性欲処理からというよりも、多分に猟奇的な、ゼイタクな心理から、男娼遊びをするものが大半であるが、浅草へ遊びに来る客というのは、大体が、小商人、職人、工員、店員といったようなプロ(レタリア)階級で、男娼を買ってみようなどという余裕のある者は少ない。そんなことが、この土地に男娼の少ない由因をなしているのである。

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(註1) 瞠若(どうじゃく)たらしめる----驚いて目を見張らされる
(註2) 都電山下停留所----正式の名称は「上野公園停留所」。現在、京成上野駅の入口の南に同名のバス停がある。
(註3) 後項の報告を見れば氷解できる----「ちかごろ男装の男娼がふえたというののも一つには、こうした受動的置位を望む客が多くなったため需要供給の現象ではなかろうか」と推測している。また「外人客も男装の男娼の方を好むときいている」と記す。ちなみに「受動的置位の客を相手にする男娼を、彼らの間では『オタチ』と称している」。
(註4) 下谷万年町----上野駅下谷口の東にあった町。(下谷区)万年町1丁目が現・台東区東上野4丁目、万年町2丁目が現・台東区北上野1丁目。
(註5) 車坂----上野駅の東側に接する地域、(下谷区)上車坂町、下車坂町。現・台東区上野7丁目。
(註6) 浅草山谷----旧・台東区浅草山谷1~4丁目、1966年の住居表示改定によって「山谷」の地名は消され、現在は東浅草2丁目、清川1丁目、2丁目、日本堤1丁目、2丁目のそれぞれ一部になっている。
(註7) 深川高橋----江東区高橋、東京メトロ白川清澄駅から北へ小名木川に架かる高橋を渡った東側の地域。「ドヤ街の男娼部屋に監禁された男の悪夢の体験」(『週刊特報臨時増刊』No3、1962年4月12日号)に、あるサラリーマンが新橋田村町あたりで女装男娼に出会い深川・高橋のドヤ街にある部屋に連れ込まれた体験が記されている。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2013-01-11
(註8) 都電終点----この時期には新宿駅東口前から靖国通りに移転していた。現在の歌舞伎町1丁目南側。
(註9) 二十四年夏----正しくは昭和23年(1948)11月22日夜の出来事。

【感想】
この時期(昭和30年前後)の女装男娼の中心は、上野でも新宿でもなく新橋・有楽町・銀座界隈であり、量的(20~30人)だけでなく質的にも高いレベルにあったことがわかる。
一方、戦後混乱期(1946~48年)の男色世界の中心だった上野の女装男娼は、昭和23年(1948)晩秋の「警視総監殴打事件」の後、他の盛り場に分散してしまい、女装男娼は数が少なくなっていて、それに代わって男装の(女装しない)男娼が台頭し圧倒的多数になっていることがわかる。戦後男色世界のフロントランナーだった女装男娼から、非女装の男性同性愛への転換期であることがはっきり見て取れて興味深い。
また、新宿では女装男娼が増加しつつあり、1950年代後半から1960年代前半における新宿の女装男娼の全盛が準備されていたことがわかる。
それに対して、戦前の男色世界の中心だった浅草の凋落ぶりが哀しい。

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コメント 2

真司

>>ちかごろでは男装、つまり生地のままの男姿の者が、圧倒的に多い。

客引きしていたというより、ハッテンバになっていたのかもしれませんね。男娼とハッテン目的のゲイと両方いた可能性が高いと思います。でもまだ貧しい頃だから金銭の介在はあったのかどうか…。
by 真司 (2013-12-07 14:25) 

三橋順子

真司さん、いらっしゃいま~せ。
プロの男娼に対して、アマチュアの動向はいっそう資料が無くてわからないのですが、一般論としてプロとアマの混在は有り得ないです。
プロがそれを許しませんから。
この時期(占領期)の「ハッテン場」の中心は日比谷公園でしょうね。

by 三橋順子 (2013-12-07 21:13) 

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