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お仕事(古代史) ブログトップ
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5月26日(月)藤原乙牟漏(桓武天皇の皇后)の崩御関係記事を読む [お仕事(古代史)]

5月26日(月)   曇りのち雨  東京  24.6度  湿度66%(15時)

7時、起床。
朝食は、グレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
灰紫基調の花柄のチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時、家を出る。
東急東横線で渋谷に出て、東京メトロ半蔵門線のホームを経由して、京王井の頭線ホームへ。
9時48分発の急行に乗り、10時08分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、サンドイッチとコーヒー。
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10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」の3回目。
『続日本紀』延暦8年(789)12月の桓武天皇の皇后、藤原乙牟漏の崩御関係の記事を読む。
藤原乙牟漏(752?or760?~789)は、光仁朝の内大臣で式家藤原良継の娘、母は光仁朝の尚侍阿倍古美奈。
宝亀4年(773)、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となると、その後宮に入り、宝亀5年、親王の第1子小殿王(後の安殿親王=平城天皇)を産む。
天応元年(781)、桓武天皇が即位すると、延暦2年(783)2月5日に無位から正三位に叙され、同7日に夫人となり、4月には皇后に立てられた。
律令制下の皇后としては3人目(聖武天皇の皇后藤原安宿媛、光仁天皇の皇后井上内親王)、藤原氏出身の皇后としては2人目。
延暦4年(785)11月には所生の安殿親王が皇太子に立てられた。
延暦5年(786)には神野親王(後の嵯峨天皇)、同8年(789)には高志内親王を産む。
延暦9年(790)閏3月10日崩御し、長岡山陵(高畠陵、京都府向日市寺戸)に葬られた。
『続日本紀』の崩伝は「后、姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑(かな)って母儀之徳有り」と記されている。
崩御の年齢については、『続日本紀』には31歳と記されているが、これでは、皇太子の宮に入ったのが14歳、安殿親王を産んだのが15歳(数え年なので満年齢では13~14歳)となる。
当時の年齢概念は13歳までは子ども、14歳以降は成人なので、婚姻についてはぎりぎり可能だが、出産についてはいささか無理があると思う。
没年齢については、鎌倉時代末期に成立する年代記『一代要記』に39歳と記されていて、こちらの方が無理がない。
773年 皇太子の宮に入る(14)→(22)
774年 第1子出産    (15)→(23)
786年 第2子出産    (27)→(35) 
789年 第3子出産    (30)→(38)
790年 崩御        (31)→(39)
790年 崩御        (31)→(39)
この説を採れば、天平勝宝4年(752)生まれということになる。
また、第1子と第2子の出産間隔が12年も空いている。
間に流産でもあったのだろうか?

ところで、『日本後紀』(逸文)延暦11年6月17日条には、「勅、去る延暦九年、淡路国をして某親王(祟道天皇)に守冢一烟を充てしむ」とあり、憤死した早良皇太子の墓に対して処置がとられたことが記されている。
早良皇太子の怨霊の出現が人々の口にのぼったのが延暦9年であり、皇后の崩御がきっかけだった可能性がある。
12時、終了。

昼食は吉祥寺駅南口のタイ料理の「Khucha(クーチャイ)」へ。
2か月続けてランチがお休みの日に行きあたってたので久しぶり(2月以来)。
ムーパッキン(豚肉の炒め物+ライス、980円)を注文。
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辛い、辛い、でもおいしい。
この辛さが味わいたくて、この店を贔屓にしているわけで満足。
店に歩き始めたばかりのかわいらしい男の子がいる。
店主の深津飛成氏(元キックボクシング日本フライ級・バンタム級チャンピオン)のお子さん。
お会計の時、「生まれました」と嬉しそうに教えてくれたのは、つい先日のような気がするが、もうこんなに大きくなったんだ。
「はじめまして」と頭を撫でる。

いつもの古書店に寄る。
『実話と手記』(手帖社)を2冊購入。

この時点で13時。
今日はとんでもないスケジュールで、最初の仕事が吉祥寺で12時終わり、次の用事が武蔵境で19時から。
なんと7時間も空きがある。
国会図書館に行こうかとも思ったが、吉祥寺→永田町→武蔵境と電車賃を使うのも、なんだか馬鹿らしい。
しかも、今日は月曜日で美術館・博物館もあらかた休館。
6時間、どうしよう・・・。
(続く)

5月7日(水)伊勢神宮の話 [お仕事(古代史)]

5月7日(水)  晴れ  東京  21.5度  湿度47%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
朝食は、カスタードクリームデニッシュとコーヒー。
粧と身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック(6分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時、家を出る。
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庭の鉄仙(クレマチス)がきれい。
もう初夏なのだなぁ。

東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
伊勢神宮の話をする。
伊勢神宮は、皇室(天皇家)の氏神(宗廟)とされているにも関わらず、『日本書紀』や『古事記』などの歴史書には、意外にもあまり出てこない。
『日本書紀』によれば天照大御神は、天孫・邇邇芸命が降臨する際に三種の神器を授け、その一つ八咫鏡(やたのかがみ)は、「天照大御神の神霊を込めた形代とされ、神武天皇以下、代々の天皇に伝えられた。
そして、第10代崇神天皇の世に大和の笠縫(かさぬい)邑に移され、皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が祀ることになった。
さらに、『日本書紀』垂仁天皇25年3月条に、「倭姫(やまとひめ)命に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る」とあり、倭姫命が八咫鏡を祀るにふさわしい地を求めて大和の菟田(うだ)の篠幡(ささはた)から近江・美濃をを経て伊勢国に至ったとき、天照大御神の信託を得て、五十鈴川の川上に斎宮を設けて祀ったことが記されている。
一般には、これが天照大御神を祀る伊勢内宮(皇大神宮)の起源説話とされる。
しかし、『日本書紀』の本文は、この宮を「磯宮」とし、「伊勢神宮」の名は記されてない。
また、話の流れからしても、これは八咫鏡の物語と見るべきだろう。

一方、『古事記』には、崇神天皇記と垂仁天皇記に豊鉏入比売命と倭比売命がそれぞれ「伊勢大神宮」を祀ったことが注記されているだけで、本文には記述がない。

さらに、外宮(豊受大神宮)にいたっては、『日本書紀』や『古事記』に記述がなく、平安時代初期の延暦22年(803)にまとめられた『止由気神宮儀式帳』に、雄略天皇の御代に内宮の天照大御神の食膳をつかさどる神(御饌津神)として丹波国(後に分割されて丹後国になる)の比沼真奈井原(まないはら)から招かれたことが記されているのが、いちばん古い。

なぜ、『日本書紀』や『古事記』に伊勢内宮・外宮の起源説話がはっきりした形で記されていないのか、謎である。

伊勢神宮の皇室神化は、壬申の乱(672)のとき、吉野を脱出して東国を目指した大海人皇子が伊勢国朝明郡の迹太(とほ)川(現:四日市市大矢知町)の辺で天照大神を望み拝し(『日本書紀』壬申紀6月丙戌条)、その加護によって近江朝廷に勝利して天武天皇になったことが、きっかけだった可能性が高い。
つまり、伊勢神宮が皇室の宗廟的な特殊な神社になっていくのは、天武天皇~持統天皇代、つまり7世紀第4四半世紀のことだったと思われる。

では、それ以前の伊勢神宮はどんな形だったのか。
それは、『日本書紀』が、天照大御神の形代である八咫鏡を「磯宮」に祀ったとするように、太陽と海への信仰の場、具体的に言えば、海から上る太陽を神として拝す場所だったのではないだろうか。
それは、最初は伊勢の海辺の人たちが祀った地方の(ローカルな)神だったが、やがて大和の大王家の太陽神信仰が重なっていく。
なぜなら大和(飛鳥)から太陽が昇る方向へどんどん歩いていくと、最初に海に出会う場所が伊勢だからだ。
天武天皇の飛鳥浄御原宮の緯度は北緯34度28分で、伊勢内宮の緯度は北緯34度27分。
実際には間に山があって真っ直ぐ東に歩くことはできないが、飛鳥浄御原宮から見て春分・秋分の太陽が昇る方向に伊勢内宮はある。
このことは、やはり偶然ではないように思う。

続いて、天照大御神の性別について。
『日本書紀』では天照大御神が女神であることは疑いようがない。
また現代でも、そのことはよく知られている。
しかし、中世から近世、鎌倉時代から江戸時代の中頃までは、天照大神が男神であるとする説は広く流布していた。
むしろ、天照大御神=男神説の方が中世から近世の「常識」と考えた方がよい。
さらに、中世には蛇身の男神説もあった。
たとえば、鎌倉時代後期の京・醍醐寺の僧。通海が著した『通海参詣記』(1286~88年頃の著述)には「サテモ斎宮ハ皇大神宮ノ后宮ニ准給テ、夜々御カヨヒ有ニ、朝毎ニ蛇(クチナハ)のイロコ(鱗)落侍ヘリナン」という伊勢の神官の言葉が記されている。
私が論文 「強豪力士は女だった!? ―鹿児島県出水市加紫久利神社の石燈籠をめぐる説話から―」 (都留文科大学ジェンダープログラム7周年記念論集『ジェンダー研究で拓く共生社会』 論創社 2013年3月)で扱った、薩摩国二宮・加紫久利神社(主祭神:天照大神)の説話でも、出水川の夢に出てくる天照大神は大蛇を首に巻いた姿だった。
天照大神が女神であると再認識されるのは、江戸時代後期の国学が広まって以降、一般的には明治時代以降のことと思われる。
そんな話をする。
残りの時間、『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)2月条の講読。
12時、終了。
(続く)

4月30日(水)大伴古麻呂の「争座事件」 [お仕事(古代史)]

4月30日(水)  雨  東京  17.5度  湿度90%(15時)
6時、起床。
昨夜は倒れるように眠ってしまったので、講義の準備ができていない。
2時間ほど作業して、今日の講義レジュメをまとめる。
朝食は、カスタードクリームデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
多色使いの花柄のチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
朱色と黒の有松絞りのショールを手提げ袋に入れる。
幸い雨は小止みで、傘を差したり畳んだり。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)正月条の講読。

天平勝宝の遣唐副使、大伴古麻呂の「争座事件」について。
【場所】 唐 長安城 蓬莱宮(大明宮)含元殿
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唐長安城1 (2).jpg
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長安城含元殿.jpg
長安城含元殿2.jpg
 
【時】 唐 玄宗 天宝12歳(753)正月元日(日本 孝謙天皇 天平勝宝5年)
【状況】 朝賀の儀 外国使節が着席する際、日本の遣唐副使大伴古麻呂が席次にクレーム。
(当初の席次)
         玄宗皇帝
   西            東
吐蕃(チベット)  ①  新羅
日本        ②  大食(アッバース朝サラセン)

【古麻呂の主張】
「古より今に至るまで、長い間、日本に朝貢している新羅が、東の第1席で、日本がそれより下の西第2席というのは理屈に合わずおかしい」
「古より」は、『日本書紀』に見える神功皇后の「三韓征討」(伝承)以来。
「今に至るまで」は、天平勝宝4年(752)に、新羅の王子金泰簾、貢調使金暄ら700余人が来日したこと指す。

【唐側の対応】
会場担当の宦官・正三品監門衛将軍呉懐実(宝?)が、古麻呂の姿勢が強硬なことを見て、新羅と日本の席次を入れ替える対応。 
(変更後の席次)        
         玄宗皇帝
   西            東
吐蕃(チベット)  ①  日本
新羅        ②  大食(アッバース朝サラセン)

【なぜ古麻呂の主張が通ったのか?】
朝賀の儀式は、正月元日の朝、宮殿の正殿に出御した皇帝を、正殿の南庭に序列順に並んだ大臣以下百官人と朝貢してきた外国使節が拝賀する、国内的には万民に君臨し天下を統治する皇帝の権威を、対外的には中華帝国の皇帝を頂点とする国際秩序を再確認するための舞台と国家最重要の儀式で、トラブルや遅滞は許されない。
本来、朝貢国同士の関係は、唐王朝は与り知らぬこと。
新羅にしてみると、日本に朝貢した事実を指摘されると、唐から「二重朝貢」で信義違反に問われかねず、引き下がった?

【そもそもの疑問】
東アジア諸国は、唐皇帝から官職を与えられ(冊封)、そのランクによって明確に序列化されていた(吐蕃、新羅)。
日本は「冊封」を受けない「不臣の蕃客」という立場をとっていた。
となると、本来、序列化できないはず。
明確な序列がないから、席次変更が可能だった?

【事件の信憑性】
虚構とする説(山尾幸久)もある。
唐側の史料には、朝賀の儀式があったことは記されているが、席次については触れていない。
思託(鑑真和上に従って来日)の『延暦僧録』(延暦7年=788年)に席次争いの記事があるが、思託がその場に居たわけでなく、後からの伝聞を記したわけで、傍証にならない。

12時、終了。
(続く)

4月28日(月)皇太夫人(贈皇太后)高野新笠の崩御関係の記事を読む [お仕事(古代史)]

4月28日(月)  晴れのち曇り  東京  23.2度  湿度42%(15時)
7時、起床。
朝食は、チョコレート・ロールとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒と白のジラフ柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入って、新宿三丁目駅で下車。
地下道を通って新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換える。
中央線は10数分の遅れが出ている。
10時20分、吉祥寺駅に到着。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」の2回目。
『続日本紀』延暦8年(789)12月の桓武天皇の母、皇太夫人(贈皇太后)高野新笠の崩御関係の記事を読む。
(1)なぜ、長岡宮のかなり北方の山に陵墓(大枝山稜)を設定したのか?
新笠の崩御は、長岡京遷都後、最初の皇族(天皇・三后)の死なので、単に新笠の陵墓をどこにするかというだけはなく、長岡京における皇族の葬送地をどこに設定するかに関わる問題。

(2)「高野」の姓の由来は?
称徳天皇(『続日本紀』では「高野天皇」)の「高野山荘」(平城京右京・西大寺の南方)に由来する。
新笠は光仁朝(法規年間)に、おそらくそこに住んでいたと考えられる。

(3)新笠の祖先伝承について。
新笠の出身氏族、和史(やまとのふひと)は、百済の武寧王の子純陀太子の子孫とする(『新撰姓氏録』も同じ)。
武寧王の没年は出土した「墓誌」によれば523年(『日本書紀』も継体17年=523で同じ)、淳陀太子の没年はそれより早く、513年(『日本書紀』継体天皇7年)。
新笠の(国風)諡号「天高知日之子姫命(あまたかしるひのこひめのみこと)」の「日之子」は、百済国の遠祖、都慕王(夫余族の朱蒙と同一人)は河伯(河の神)の女が日の精に感じて生れたことに基づく。

(5)そもそもの謎として、五位官人すら出せない百済渡来の小氏族・和史(やまとのふひと)氏の娘が、天智天皇の孫、施基皇子の子である二世王(孫王)白壁(しらかべ)王(後の光仁天皇)の妻に、どういう出会いでなったのか?
新笠は、能登内親王(天平7年=735生)、山部親王(天平9年=737生、後の桓武天皇)、早良親王(出家して大安寺に入る。後に還俗して立太子)の二男一女をもうけている。
したがって、白壁王(和銅2年=709生)との結婚は天平5年前後と考えれられ、その時、白壁王はまだ無位だったが、二世王なので従四位下直叙の資格(天平9年に従四位下)を持っている。
渡来系の下級官人の娘とは、どう考えても身分違い。
伝記に「容徳淑茂、夙著声誉」と書かれているように抜群の美人だったのか?
12時、終了。

南口のタイ料理「クーチャイ」は、ランチお休みで残念。
古書店に寄る(詳細別記)。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-04-29
12時30分発の京王井の頭線急行で渋谷に出る。
昼食はどうしようと・・・?と悩んだ末に、「かつ屋」へ。
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前回(1カ月前)はかつ丼を試したので、今回はトンカツ定食(トン汁を「大」に変更で830円)。
う~ん、想像していたよりマシだった。
まあお値段なりに・・・というだが、やっぱり「おばちゃん」には量が多い。
(続く)

3月24日(月)桓武朝初期の後宮 [お仕事(古代史)]

3月24日(月)  晴れ  東京  18.5度  湿度23%(15時)
7時、起床。
朝食は、洋なしデニッシュと野菜ジュース
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のニットのポンチョ。
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8時50分、家を出る。
東急東横線で渋谷へ。
寝不足で疲労が取れず、身体がだるい。
車中、居眠り。
渋谷駅で京王井の頭線に乗り換え。
9時48分発の急行に乗り、10時08分、吉祥寺駅に到着。
いつもより1本遅い電車だったので、いつもの「ドトール」での休憩はなし。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
今回から「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」に入る。
まず、なぜ桓武朝において2度の遷都(長岡遷都・平安遷都)が行われたかについて、諸説を解説。
続いて、桓武天皇(737~806)の後宮の構成を説明。
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山部親王(桓武)は宝亀4年(773)に皇太子になった時、すでに36歳だったので、当時のライフサイクルからして結婚して子供がいても不思議ではないのに、まったく不明なこと。
これは桓武天皇の前半生の大きな謎(詳しい経歴不明)。

皇太子時代に入宮した女性。
◎ 藤原乙牟漏(760~790) 光仁朝の 内大臣藤原良継(式家)の女。生年については752年説が有力。
 延暦2年(783)2月5日無位→正三位、同2月7日夫人、同4月18日皇后。
   安殿親王(平城天皇)(774~824) 宝亀5年(774)生 ①
   神野親王(嵯峨天皇)(786~842) 延暦5年(786) ④?  
   高志内親王(789~809) 延暦8年(789) 大伴親王(淳和天皇)妃(贈皇后)

◎ 酒人内親王(754~829) 光仁天皇の皇女、母は皇后井上内親王(聖武天皇の皇女)。
 聖武天皇の外孫、山部皇太子にとっては異母妹。即位後、ほどなく妃。
   朝原内親王(779~817) 第一皇女、伊勢斎宮、後に異母兄平城天皇の妃。

◎ 藤原吉子(?~807) 山部皇太子の春宮大夫、桓武朝前半期の右大臣藤原是公(南家)の女。
 即位後、ほどなく夫人か。 
   伊予親王(?~807) ②  生年は宝亀11年(780)頃と推定

この他、女嬬の多治比豊継(?~?)に手を付けて、長岡岡成(?~848、延暦6年=787長岡朝臣賜姓)を生ませている。

延暦年間初期に入宮した女性
◎ 藤原旅子(759~788) 山部皇太子擁立の功臣で光仁朝の参議藤原百川(式家)の女。
 延暦4年(785)11月24日無位→従三位、5年(786)1月17日夫人。
   大伴親王(淳和天皇)(786~840) 延暦5年(786) ⑤?

◎ 多治比真宗(769~813) 桓武朝の参議多治比長野の女。 延暦16年(797)夫人
   葛原親王(786-853) ③  嵯峨天皇の兄、桓武平氏の祖。
   佐味親王(793-825) ⑨
   賀陽親王(794-871) ⑩  
   大野親王(798-803) ⑪
   因幡内親王(?-824)
   安濃内親王(?-841)

◎ 藤原小屎(?~?) 従五位上藤原鷲取(北家)の女、桓武朝初期の左大臣藤原魚名の孫。後に夫人(時期不詳)。
   萬多親王(788~830) ⑥
この他、側近の藤原内麻呂(756~812)の妻(藤原真夏・冬嗣の母)で女嬬の百済永継(?~? 飛鳥部奈止麻呂の娘、)に手を付けて、良峯安世(785~840、延暦21年=802良峯朝臣賜姓)を生ませている。

(まとめ)
延暦2年4月時点の後宮は、皇后藤原乙牟漏、妃酒人内親王、夫人藤原吉子の構成か。
そして、延暦5年に藤原旅子が夫人に加わる。
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その後、『続日本紀』延暦7年(788)5月辛亥(4日)条夫人藤原旅子の薨去記事を読み、同12月乙未(28日)条の母(贈皇太后)高野新笠の崩御記事に入る。
12時、終了。
(続く)

3月5日(水)前期難波宮の年代について [お仕事(古代史)]

3月5日(水)
8時、起床。
朝食は、グレープフルーツデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のボア襟のポンチョ。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
前期難波宮出土の柱根が、最新手法の年代測定で7世紀前半の伐採であることが明らかになったことについて解説。
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難波宮出土の柱、7世紀前半に伐採  最新手法で年代測定
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難波宮跡で出土した柱材。根元の部分が残っていた=大阪府文化財センター提供
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大阪市の難波宮(なにわのみや)跡(国史跡)で10年前に出土した柱材を、年輪に含まれる酸素同位体の比率を調べる最新の年代測定法で調べたところ、7世紀前半に伐採されたことがわかった。大阪府文化財センターが24日発表した。有名な遺跡の出土品が、この手法で年代測定されたのは初めて。柱材は、孝徳天皇が645年から建設した前期難波宮のものである可能性が強まった。
柱材は2004年、大阪府警本部の新築工事に伴う発掘調査で出土。東西に並んだ三つの柱穴のうち、二つに針葉樹とみられる柱の根元部分が残っていた。年輪が粗いため、年輪幅の変動を調べる従来の方法が使えず、飛鳥時代の前期難波宮のものか、奈良時代の726年から聖武(しょうむ)天皇が整備した後期難波宮のものかがはっきりしなかった。
総合地球環境学研究所(地球研、京都市)は年輪に含まれる酸素同位体の比率が1年ごとにどう変化するかを調べ、標準的な変動パターンと照合して年代を割り出す測定法を研究している。この手法で2本の柱材を測定した結果、最も外側の年輪は583年と612年を示した。年輪の状態から612年の年輪は樹皮に近いとみられ、数十年分は加工の際に削られたと考え、ともに7世紀前半に伐採されたと推定した。
センターの担当者は「柱列は過去の調査成果から推定された前期難波宮の北辺と一致しており、宮の南北の範囲がほぼ確定するだろう」という。
柱材は3月4日~4月6日、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で展示される。3月15日午後1時半から、同館で研究成果の講演会もある。
■ 酸素同位体の比率に注目
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酸素同位体による年代測定法は、年輪から地球の気候変動を読み解く研究から生まれた、日本独自の技術だ。樹種を問わずに測定でき、遺跡の年代研究の前進が期待される。
この手法は、重さが異なるO16とO18の二つの酸素同位体の比率を測定する。気候が乾燥すると、葉から軽いO16を含む水が多く蒸発し、植物内は重いO18が増える。逆に雨が多い季節にはO18は減る。
地球研の中塚武教授(環境動態解析)は比率の変動から降水量の変化を読み取り、過去の気候変動を研究していた。3年ほど前に年代測定に応用できることに気づき、現代から紀元前600年ごろ(弥生時代前期)までの同位体比の標準的な変動パターンを作成。遺跡出土の木材の年代を割り出せるようになった。
気候が良好な年は年輪の幅が広がることに注目した測定法は、スギやヒノキ、コウヤマキなど針葉樹に限られるが、酸素同位体はどの樹種でも測定可能だ。木材の一部を切り取って分析する必要があるため、重要な文化財には応用しにくいものの、中塚教授は「これまで年輪が少ないため注目されていなかった細い柱材や杭が、年代特定の決め手になる」と話す。(編集委員・今井邦彦)
『朝日新聞』2014年2月25日09時24分
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文献資料に見える難波宮は、孝徳天皇が乙巳の政変の直後に遷都した難波長柄豊碕宮(645年)、天武天皇が683年(天武12年)に副都に指定し、686年(朱鳥元)正月に全焼した天武朝難波宮(683~86)、そして聖武天皇が修造した難波宮(726~784)の3つ。
それに対して、大阪城の南側の法円坂の難波宮遺跡で出土している宮殿の遺構は2つ。
この内、上層遺構の後期難波宮が聖武天皇が修造した難波宮(726~784)であることは異論がない。
問題は、下層遺構の前期難波宮が孝徳天皇の難波長柄豊碕宮なのか、天武朝の難波宮なのか、ということ。
この問題について、考古学者の多くは前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であり、それが天武朝まで存続し、686年(朱鳥元)に焼失したと考える。
一方、文献史学、とりわけ宮都制の研究者の多くは懐疑的だった。
なぜなら、前期難波宮の構造があまりにも先進的(隋唐的)であり、前後の宮都と比べて革新的すぎたからだ。
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つまり、前期難波宮を孝徳朝に位置づけると(上図)、日本の宮都の構造は、伝統的・素朴な宮の形から孝徳朝に一気に大進歩し、その後の斉明・天智・天武朝ではまた元の形に戻り、持統朝に至ってやっと前期難波宮に近い形に戻ったことになる。
それに対して、前期難波宮を天武朝に位置づけると(前期難波宮を飛鳥浄御原宮と藤原宮の間に移す)、日本の古代宮都の発展は、きわめてスムーズになる。
しかし、2004年、前期難波宮の北西部(正確には北の柵列の外側の谷)から「戊申年木簡」が発見された。
干支と記載内容(「評(こおり)」)からして、戊申年が648年(大化4年)であることは、ほぼ確定的で、前期難波宮が孝徳朝の難波宮である可能性が文献資料的にも高くなった。
それに加えて、今回の、前期難波宮の北外廓に相当する柱列(柵)の柱根の年代測定が600年代前半という
結果が出た。
これによって前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である可能性がますます高くなった。
というか、ほぼ確定的になった。
客観的にはそうなのだが・・・、宮都制や宮の構造と密接に関係する律令官人制を勉強して者として、どうしても違和感が残る・・・という話をした。
12時、終了。

昼食は、自由が丘駅南口の「Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(800円)。
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13時、自宅最寄り駅に移動して駅前の「ドトール」で、コーヒーを飲みながら読書。
14時、帰宅。
昨夜の千葉県柏市の「連続通り魔事件」についてリサーチして、ブログに記事をまとめる。
夕食は、牛肉と野菜、それに豆腐の炒め煮(牛丼の具)を作る。
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食後、1時間ほど、仮眠。
お風呂に入って温まる。
久しぶりに早起きしたのでとても眠く、早寝する。
就寝、2時。


2月24日(月)「延暦8年の蝦夷征討」シリーズ、終了 [お仕事(古代史)]

2月24日(月)  晴れ  東京  8.7度  湿度51%
7時15分、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟のカシミアのポンチョ。
8時50分、家を出る。
東急東横線が渋谷止まりだったので、渋谷駅で乗り換え。
東京メトロ半蔵門線のホームを経由して、京王井の頭線ホームへ。
9時43分発の急行に乗り、10時03分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、朝食(サンドイッチとコーヒー)。
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10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
昨年5月から続いている「桓武朝の『蝦夷征討』」の9回目。
『続日本紀』延暦8年(789)7月丁巳(17日)条の征討将軍の凱旋の上表文の「虚飾」を厳しく叱責する桓武天皇の勅と、同9月戊午(19日)条の将軍らの勘問と処分の宣命読んで、解説。
北上川渡河作戦で、蝦夷の族長アテルイの術中にはまり、作戦に参加した6000の兵力の6分の1以上に相当する1000人以上の戦死者を出し、負傷者と武装放棄者を加えると損耗率42.7%という大敗北を喫し、多年準備した軍糧をいたずらに費やし、目的だった蝦夷の本拠地「胆澤」(北上盆地)攻略をとげられずに軍を解いた責任は、当然、征討大将軍紀古佐美が負うべきだが、「承前に仕え奉りける事(これまでの功績)」を理由に不問にしてしまう。
(紀古佐美はその後も天皇の信任を失わずに出世を重ね、最晩年には大納言として太政官筆頭公卿にまでなる)
代わりに、東国(下総国猨嶋郡)出身で、蝦夷征討に長年従事した「叩き上げ」の副将軍、安倍猨嶋墨縄に責任を負わせて、官職・位階を剥奪。
同じく副将軍の池田真枚も官職剥奪。
どう見ても公平を欠く処分だが、桓武天皇は、征東将軍に適任者を据えなかった自分の人選ミスを自覚していたように思う。
こうして、延暦8年の「蝦夷征討」は失敗に終わった。
桓武天皇が、征討将軍の適任者(坂上田村麻呂)を見出すには、もう少し時間が必要だった。
これで「延暦8年の蝦夷征討」シリーズは終了。

講義の前、ずいぶん前から受講してくださっている男性が挨拶に来る。
「長い間、勉強させていただきましたが、今日限りでで失礼いたします。今年85歳になり、もう体力の限界です」
理由が理由だけに引き止めるわけにもいかない。
「長い間、ありがとうございました。どうかお健やかに」
と言うしかなかった。
この講座、もう限界だな、と思う。

12時、終了。

昼食は、吉祥寺駅南口、タイ料理の「Khucha(クーチャイ)」へ。
ムーパッキン(豚肉の炒め物+ライス、980円)を注文。
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タイから帰って来たばかりなのにタイ料理。
自分でも「好きなんだなぁ」と思う。
でも、この店は、現地の高級ホテルのタイ料理より、おしいいから。
マスターに「先週、タイに行ってきました」と報告すると、「いいんなぁ、自分なんて、この店は始めてから、もう4年も行ってないすよ」という返事。
お会計しようと思ったら、ポイントが溜まったとかで返金。
なんだか申し訳ない。
ご馳走さまでした。
12時40分、辞去。

駅前通りの古書店で、佐々木宏幹・鎌田東二『憑霊の人間学』(青弓社、1991年)を購入。
シャーマニズムについて、もう少し勉強したいので。
佐々木先生には、大学(学部)で社会人類学を教わった。
鎌田さんは、某短大の講師室でご一緒したことがある(覚えてらっしゃらないだろうが)。

12時53分の急行で渋谷へ。
(続く)

1月27日(月)延暦8年の蝦夷征討、失敗の原因 [お仕事(古代史)]

1月27日(月)  晴れ  東京  7.5度  湿度27%
7時15分、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
多色使いの植物柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟のカシミアのポンチョ。
8時50分、家を出る。
東急東横線が渋谷止まりだったので、渋谷駅で乗り換え。
東急東横線から京王井の頭線への乗り換えは、東京メトロ半蔵門線のホームを経由すると近いので、今日もそのルートをたどる。
ところが、東京メトロ半蔵門線&東急田園都市線は、9時19分に青山一丁目駅で発生した人身事故のため運転休止中。
ホームは閑散、改札口の外は「遅延証明書」を求める人の大行列。
「運転再開は10時30分頃の予定」と掲示されていたので、電車と接触して転倒した程度の事故ではなく、「後始末」に時間がかかる事故だろう。
朝のラッシュのピークは過ぎているが、少し遅めの出勤の人や、大学の2コマめに出席しようとする学生が多い時間帯。
大学生は期末試験やレポート提出の時期。
この事故で遅刻して、単位が取れないようなことになったら、ほんとうに大迷惑。
例によって、事故なのか、飛び込み自殺なのかは情報隠蔽。
後者なら、社会に大迷惑をかける死に方は止めて欲しい。

京王井の頭線9時43分発の急行に乗る。
10時03分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、朝食(サンドイッチとコーヒー)。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
昨年5月から続いている「桓武朝の『蝦夷征討』」の8回目。
『続日本紀』延暦8年(789)6月庚辰(9日)条を読んで、解説。

「衣川の戦い」(北上川渡河作戦)で大敗北を喫した征東将軍紀古佐美(こさみ)の弁明の報告書。
玉造塞(宮城県古川市名生館遺跡)から前線基地の衣川営(岩手県)まで陸路の輸送で4日かかる。
軍粮(糒=ほしいい)の受け渡し(積み込み・荷下ろし)に2日かかるので、往復に10日を要す。
衣川営から征討の最終目的地である子波(しわ 岩手県盛岡市付近)までは、(北上川の水運を使って?)6日かかる。
やはり、受け渡し(積み込み・荷下ろし)に2日かかるので、往復に14日を要す。
つまり、玉造塞から子波の地までは、往復24日もかかる。
これには、途中で賊(蝦夷)に襲撃されて戦ったり、雨のため逗留しなければならない日数は含まれていない。
水陸兩道の輸送に従事する人員(輜重部隊)は12430人である。
(1人が運べる糒は5斗なので)、輸送部隊が1度に運べるのは6215斛(こく)である。
従軍している兵士は27470人であり、(1日2升充てとすると)1日に必要な量は549斛(計算上は549斛5斗)である。
※ 奈良時代の1升は、現在の約4合
ということで、輸送部隊が(24日を要して)1度に運べる軍粮は、戦闘部隊の僅か11日分(計算上は11.31日分)にしかならない。
つまり、軍粮の補給という面から、子波征討は不可能なので、征討を中止して軍を解きたいという要望。
しかも、桓武天皇の裁許を得ずに、軍を解いてしまった。

軍粮の補給をしっかり計算して、作戦の不可能を奏上している紀古佐美は、太平洋戦争の陸軍参謀よりずっと賢い。
しかし、こうした彼の才能は、主計将校や参謀向きではあっても、司令官向きではないと思う。
最終的に、延暦8年の蝦夷征討の失敗は、征東将軍に適任者を据えなかった、桓武天皇の人選ミスにあるように思う。
12時、終了。

昼食は、吉祥寺駅南口、タイ料理の「Khucha(クーチャイ)」へ。
久しぶりにグリーン・カレー(980円)を注文。
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野菜は素揚げした茄子や南瓜など。
じっくり煮込まれているのでトロトロ。
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ああ、おいしかった。
12時45分、辞去。

(続く)

12月23日(月・祝)今日の古代史(征討軍の大敗) [お仕事(古代史)]

12月23日(月・祝)  曇り  東京  8.1度  湿度41%
8時、起床。
1時間ほど寝過ごす。
2日続きの寝坊。どうもおかしいな。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
大急ぎで化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に乗り入れ新宿三丁目駅へ。
殺風景な地下道を歩いて新宿駅東南口へ。
JR中央線快速に乗換え、10時08分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、朝食(サンドイッチとコーヒー)。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
5月から続いている「桓武朝の『蝦夷征討』」の7回目。
『続日本紀』延暦8年(789)6月甲戌(3日)条を読んで、地図を使って解説。
いよいよ蝦夷の本拠地「胆澤」攻略を目指す征討軍(律令政府軍)と蝦夷軍が激突。
持節征東大使紀古佐美率いる征討軍は、衣川営(現:岩手県平泉町の中尊寺のある丘=関山、もしくは関山の北を西から東に流れる衣川を渡った地点)を出て、北上川西岸を北に進み、軍を3つに分け(前・中・後軍)、時を合わせて北上川本流を西から東に渡河。
中・後軍(各2000人、計4000人)は、北上川東岸を北上。
しかし、前軍は蝦夷勢に遮られて渡岸できない)。
蝦夷の本拠地に至る頃、蝦夷軍300人が現れて戦闘になるも、征討軍はこれを突破。
退却する蝦夷軍を追い、蝦夷の村に火を放ちながら北へ進む。
ところが、巣伏村付近で、優勢な蝦夷軍800人に前方を塞がれ激戦となり、征討軍は苦戦。
退却しようとした時、東の山から蝦夷軍の伏兵400人が出現し、前後を挟み撃ちにされ、征討軍は総崩れとなり、西に追われて次々に北上川に追い落とされる。
結果は、戦死25、溺死1036人、負傷245人、甲冑を脱ぎ捨て裸で泳ぎ着た者1257人。
別将丈部(はせつかべ)善理以下、名のある者5名が戦死。
征討軍は戦闘に参加した中・後軍4000人の内、2563人(64%)が戦闘能力を失うという大敗北を喫する。
延暦2年頃から6年の準備を重ね、桓武天皇が「坂東の安危、この一挙にあり」と檄を飛ばした征討作戦は頓挫してしまう。

征討軍は推定6000人、それに対して蝦夷軍は推定2000人ほど。
寡兵の蝦夷勢はまず渡岸する征討軍を分断し、まず300人が囮となって退却し、征討軍を誘い込む。
そして、深追いした征討軍を地の利と伏兵を使って挟撃し川に追い落とすという見事な作戦。
胆澤の蝦夷軍を率いる族長阿弖流爲(あてるい)の史書への鮮烈な登場だった。

問題は、戦闘が行われた場所がどこか?ということ。
まず、どの地点渡河したのかが判らない。
渡河に適した地点は限られるだろうが・・・。
次に、激戦地の「巣伏村」の場所が判らない。
この地域、北上川は胆沢盆地の東を流れ、東岸は山裾が迫ってほとんど平地が無い。
旧江刺市愛宕地区(現:奥州市江刺区愛宕)まで北上すれば平地があるが、北に行き過ぎる感がある(衣川の対岸から約20km)。
旧江刺市黒石町付近だと、約10km強いで距離的にはイメージに合う。
何度も読んでいる史料だが、具体的に地図の上にイメージしようとすると、判らないことだらけ。
12時、終了。
(続く)

12月18日(水)今日の古代史(弥生時代の製鉄炉・飛鳥寺西方遺跡) [お仕事(古代史)]

12月18日(水)  曇りのち雨  東京  8.8度  湿度55%(15時)

8時、起床。
朝食は、りんごデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
多色使いの植物柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
どんより重い曇り空だが、まだ雨は降っていない。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、考古学の話題から。
1つ目は長崎県壱岐市の弥生時代の環濠集落カラカミ遺跡から、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が発見されたニュース。
鉄器は紀元前3世紀頃 、青銅器とほぼ同時期に日本へ伝来したが、当初は製鉄技術がなく製品が輸入されていたと思われる。
鉄生産用の地上炉は、岡山県総社市の千引かなくろ谷遺跡で発見された6世紀後半の製鉄炉跡4基、製鉄窯跡3基が最も古いとされていたので、今回のカラカミ遺跡の発見が地上炉と確定すれば、日本における本格的な鉄器生産の開始が一気に300~500年も遡上することになる。
まあ、朝鮮半島南部で行われていたことが、一衣帯水の北九州に何百年間も伝来しないことの方がおかしい。
まして弥生時代末期から古墳時代前期にかけて倭国は朝鮮半島南部の鉄資源(「任那の鉄」)を掌握しようとしていたわけで、壱岐島から初期の鉄生産遺構が出土したのは、むしろ当然だろう。
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鉄生産の地上炉跡、国内初確認…長崎・壱岐市
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地上炉跡付近を右手で示す壱岐市学芸員(14日、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で)
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長崎県壱岐市教委は14日、同市の弥生時代の環濠(かんごう)集落カラカミ遺跡で、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が複数見つかった、と発表した。
弥生時代では明確に確認されていない精錬炉跡の可能性があるとしている。専門家によると、日本で精錬が始まったのは6世紀後半とされており、従来の定説の見直しにつながる可能性もあるという。
市教委によると、炉跡は少なくとも6基あり、竪穴住居跡の中で見つかった。弥生時代後期(紀元1~3世紀)の複数の時期のもので、床面に直径約80センチの範囲で焼土塊が広がっており、床面に直接炉を築く地上式とみられる。炉に風を送るふいごの一部や棒状の鉄素材も出土している。
これまで国内各地で確認されている鍛冶炉は地面に穴を掘ったものだが、今回は韓国南部の遺跡などにみられる精錬炉跡に似ているという。
市教委は「カラカミ遺跡では鉄素材が多く出土していることからも、精錬炉だった可能性がある」と指摘。朝鮮半島から1次素材を輸入し、本土へ鉄を供給する中継交易拠点だったと推測している。
カラカミ遺跡は、「魏志倭人伝」に記された「一支国(いきこく)」の王都とされる「原(はる)の辻(つじ)遺跡」(国特別史跡)とともに、一支国を構成する集落と位置づけられている。
『読売新聞』2013年12月15日(日)11時13分配信
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131214-OYT1T00733.htm
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もう1つは、奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡から焼け土が入った大きな柱穴が13個発見されたというニュース。
飛鳥寺西方遺跡からは、今までの調査で広大な(東西120m×南北200m?)石敷き広場が発見されていて、『日本書紀』で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされるている。
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この場所には「壬申の乱」の時、近江朝廷(大友皇子)方の陣地が置かれ、それを大海人皇子(後の天武天皇)方の軍勢が襲撃して陣地を奪ったことが『日本書紀』に見えるので、今回発見の柱穴は、その時の「陣地」の建物や塀の跡かもしれないという話。
飛鳥のこのエリアは、長年、発掘調査を重ねて広域の様子が景観的に復元できるようになってきている。
さらに古代史の実相が明らかになることを期待したい。
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「槻の木の広場」に穴13個発見 奈良・飛鳥寺西方遺跡
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飛鳥寺西方遺跡の地図
【塚本和人】大化改新の立役者、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蹴鞠(けまり)を通じて初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされる奈良県明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、石組み溝に平行して並ぶ13個の穴が見つかった。村教委が11日発表した。塀や建物の柱穴の可能性があり、近江に遷都後の防衛拠点の建物ではとの見方も出ている。
村教委は昨年度、飛鳥寺の西方で石畳が広範囲に広がる遺構を発掘。今年度、その西側で東西約25メートル、幅1・3メートルに石を敷き詰め、排水溝の可能性がある石組み溝(深さ約15センチ)が見つかり、溝の約6・5メートル北で東西方向に13個の穴(直径約0・3~1・2メートル)が2・4~2・7メートルの間隔で並んでいた。穴を埋めた土には焼けた痕跡を確認。村教委は、塀や建物などが燃えて埋め戻された後に砂利が敷かれたとみている。
和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)は穴列について、中大兄皇子が667年に近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都後、飛鳥の防衛拠点として置かれた「留守司(とどまりまもるつかさ)」の建物だった可能性を指摘。「初めてその一部が見えてきたのかもしれない」と話す。
『朝日新聞』2013年12月11日21時36分
http://www.asahi.com/articles/OSK201312110113.html
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残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)10~12月条の講読。
巻18を読了。
12時、終了。
(続く)
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