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三笠宮崇仁親王殿下、ご逝去。100歳 [訃報・追悼]

10月27日(木)

三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下、ご逝去。100歳。

大正天皇第4親王。
昭和天皇の弟宮として陸軍に入り、南京の支那派遣軍総司令部に勤務した後、大本営参謀に転じる(最終軍歴は陸軍少佐)。
戦後は古代オリエント史を学ばれ、皇族としての公務の傍ら、東京女子大学などの講師を務めた。
歴史学者の立場から、紀元節(建国記念日)の復活に反対した。

100歳を超えるご長寿だったが、3人のご子息(寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王)すべてに先立たれた人生、お辛いことも多かったと思う。

ラグビー元日本代表の平尾誠二さんの訃報 [訃報・追悼]

10月20日(木)

ラグビーの日本代表でスタンドオフ(SO)として長く活躍されたの平尾誠二さんの訃報に驚く。
まだ53歳、私よりかなり下だ。

熊谷高校の先輩だった宿沢広朗さん(2006年、56歳で逝去。心筋梗塞)にしろ、平尾さんにしろ、私がファンだったラガーマンは、なぜ早死にしてしまうのだろう。

身体を鍛えたスポーツマンが、必ずしも「健康」ではないということ。
過度に身体を鍛えることは、身体にとって不自然なことなのかもしれない。
哀しいな。

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平尾誠二さん死去 53歳、ラグビー日本代表の司令塔

ラグビー日本代表の司令塔として活躍し、代表監督も務めた平尾誠二(ひらお・せいじ)さんが20日、京都市内の病院で死去した。53歳だった。神戸製鋼関係者が明らかにした。

平尾さんは1963年生まれ、京都市出身。京都・伏見工高では山口良治監督のもとで3年時に全国高校ラグビー大会で初優勝を果たした。同志社大に進んでからは、当時史上最年少の19歳4カ月で日本代表に選ばれ、史上初の大学選手権3連覇も達成した。

神戸製鋼ラグビー部では主将も務め、88年度から日本選手権で7連覇し、黄金期を築いた。日本代表ではワールドカップ(W杯)に3回出場し、91年には日本の初勝利にも貢献した。現役時代は主にSO(スタンドオフ)としてゲームを組み立てる役割を担った。99年のW杯では日本代表監督も務めた。

98年に現役引退後は神戸製鋼の総監督なども務め、近年はゼネラルマネジャーとしてチームの強化や編成に携わっていた。

『朝日新聞』2016年10月20日13時30分
http://www.asahi.com/articles/ASJBN452SJBNPTQP00F.html?iref=comtop_8_07

タイ王国のプミポン国王陛下のご逝去、88歳 [訃報・追悼]

10月12日(木)

タイ王国のプミポン国王(ラーマ9世)陛下のご逝去を心からお悔やみ申し上げます(合掌)。

タイは、いちばんたくさん(4回)訪れた国。
タイに一度でも行った人はわかると思うが、国王さまと王妃さまの肖像写真が、ほんとうにあちこちに飾ってある。
それだけタイの人々の敬愛を集めていたわけで、国民の悲歎はとても大きいと思う。

18歳でチャクリー王朝第9代国王として即位、貧しい農業国だったタイを70年の治世の間に、中進国に導いた。
さらに、どれだけ政情が混乱しても、最後は偉大なカリスマである国王陛下の意向で収まっていた国柄。
新国王にそれだけのカリスマ性はなく、今後が不安視される。


日本中世史・脇田晴子先生の訃報 [訃報・追悼]

9月28日(水)

脇田晴子先生にお目にかかったのは1度だけだったと思うが、日本中世における性別越境者と芸能の関係など、たくさんの学恩をいただいた。

ご冥福をお祈りいたします(合掌)。
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脇田晴子さん死去 女性史研究、文化勲章

中世の都市や女性史、芸能史の研究で文化勲章を受章した歴史学者で、滋賀県立大学名誉教授の脇田晴子(わきた・はるこ)さんが27日、死去した。82歳だった。

1934年、兵庫県西宮市生まれ。京都大大学院博士課程を経て京都橘女子大(現・京都橘大)、大阪外国語大(現・大阪大外国語学部)などで教鞭(きょうべん)をとり、石川県立歴史博物館長も務めた。夫は歴史学者で、大阪大名誉教授の修(おさむ)さん。

商業史研究を通し、それまで暗く停滞した時代と考えられていた中世が、実は経済活動の活発な時代だったことを論証。その中で大きな役割を果たしたのが、夫とともに家業を切り盛りしていた女性たちであったことも明らかにした。芸能者や遊女ら、差別を受けた人々にも光を当てた。

女性歴史研究の先駆者として多くの後進を育て、「女性史学賞」の創設に尽力。芸能史の研究でも多くの実績を残した。石見銀山(島根県)の歴史文献調査団長も務め、世界遺産入りに大きな役割を果たした。05年に文化功労者、10年に文化勲章受章。主な著書に「能楽からみた中世」「日本中世都市論」など。

『朝日新聞』2016年9月28日16時30分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12582019.html?rm=150


昭和戦後期の大横綱千代の富士(九重親方)逝く [訃報・追悼]

7月31日(日)

誕生日が8日違いの同じ年なので、ずっとリアルタイムで見てきたお相撲さん。

入幕してしばらくは力任せの投げにたよる怪我が多い小兵力士という印象だったが、1980年秋、3度目の小結で覚醒(10-5)。
鋭い立ち合いから前みつを取り、一気に寄るという合理的で安定した取り口に変貌。
関脇2場所(11-4,14-1優勝)で大関、大関3場所(11-4,13-2,14-1優勝)で横綱に駆け上がった。
そして優勝31回(内、全勝7回)、53連勝という、大鵬と並ぶ昭和戦後期を代表する大横綱になった。
通算1045勝は、平成の大横綱白鵬ですらまだ抜けない。

お相撲さんは短命な人が多いが、千代の富士(九重親方)は筋肉質なので長生きするだろうと思っていた。

膵臓がんが怖いのはわかっているが、61歳での早すぎる逝去は同年齢人してとても残念だ(合掌)。

【追記】
北の富士さん、辛いだろうな。
なんだか、かっての森繁久彌さん(「なんで、皆、先に逝ってしまうんだ!」)みたいになってきたな。
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師匠北の富士さん弔問「何で強い順に」 千代の富士死去

大相撲の元横綱千代の富士(九重親方)の死去から一夜明けた1日、東京都墨田区の九重部屋には師匠の元横綱北の富士さん(74)が弔問に訪れた。「穏やかで、千代の富士らしい顔だった。快方に向かっていると思っていたので、本当に驚いている。大鵬、北の湖、何でだろう。強い順に逝っちゃうね」と話した。

『朝日新聞』2016年8月1日11時41分
http://www.asahi.com/articles/ASJ813RNFJ81UTQP00K.html?iref=comtop_8_05

作家の近藤富枝さん逝去、93歳 [訃報・追悼]

7月25日(月)

作家の近藤冨枝さんが亡くなられた。
1922年(大正11)生まれの93歳だから、大往生だろう。

『モナ・リザは歩み去れり ー明治四十年代の吉原ー』(講談社 1983年) や『装いの女ごころ ーもうひとつの日本女装史ー』(講談社 1985年)など、私の専門である性社会史、着物の社会史の両面で、 ずいぶん勉強させていただいた。
近藤冨枝1.jpg 近藤冨枝2.jpg
戦前・戦中の日本を(大人として)知っている人がどんどんこの世去っていく(合掌)。

(註)近藤さんの「女装史」は「女性の服飾の歴史」という意味で、「女装」の本来の用法。

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近藤富枝さん死去 朝ドラ「本日も晴天なり」モデル

近藤富枝さん(こんどう・とみえ=作家・随筆家)が24日、老衰で死去、93歳。通夜は8月1日午後6時、葬儀は2日午前11時から東京都新宿区上落合3の4の12の最勝寺檀信徒会館で。喪主は長男近藤龍太郎(りょうたろう)さん。

1944年に日本放送協会に入り、アナウンサーに。翌年、敗戦を機に退局。81~82年に放映されたNHK連続テレビ小説「本日も晴天なり」のヒロインのモデルになる。代表作に「本郷菊富士ホテル」「田端文士村」などの文壇資料シリーズ三部作がある。

『朝日新聞』2016年7月25日12時58分
http://www.asahi.com/articles/ASJ7T4172J7TUCVL00C.html?iref=comtop_8_07


「ザ・ピーナッツ」(妹)逝く [訃報・追悼]

7月11日(月)

新宿歌舞伎町ホステス時代、「恋のバカンス」「恋のフーガ」「ウナセラディ東京」「情熱の花」・・・ザ・ピーナッツの歌はずいぶん歌った。
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姉妹揃って70代前半で亡くなったのは、平均寿命を考えると早死だと思う。
「昭和の歌姫」が、また一人逝ってしまった。
合唱、もとい合掌。

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伊藤ユミさん死去 「ザ・ピーナッツ」

ヒット曲「恋のバカンス」などで知られる双子デュオ「ザ・ピーナッツ」の妹で、元歌手の伊藤ユミ(いとう・ゆみ、本名・月子〈つきこ〉)さんが5月18日に死去していたことが11日、わかった。75歳だった。葬儀は近親者で行った。

愛知県出身。1959年に双子の姉のエミさんとのコンビでデビューした。「シャボン玉ホリデー」などに出演し、人気歌手に。双子で怪獣映画「モスラ」にも出演した。エミさんは2012年に亡くなっている。

『朝日新聞』2016年7月11日16時30分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12454693.html?rm=150

大島俊之先生の逝去の報に接す [訃報・追悼]

2月22日(月)

バンコクにて、大島俊之先生(法学者、前GID学会(性同一性障害学会)理事長、元神戸学院大学教授)の訃報に接す。

たしかまだ68歳、お亡くなりになるようなお歳ではない。
やはり、酒毒がお命を縮めてしまったのだろうか。

私とは戸籍の続柄(性別)変更問題をめぐって見解を異にすることも多かったが、同時に教えられるところも大きかった。
昨年11月15日の「関西GIDネットワーク」の市民フォーラム(大阪「梅田ガクトホール」)での私の講演に、わざわざお出掛けくださったのが最後になってしまった。

心からご冥福をお祈りいたします(合掌)。

【追記(24日)】
逝去されたのは19日とのこと。
GID学会(大阪府大)の懇親会でお会いした時、どす黒い顔色と浮腫みに驚き、正直言って、これは長くないかも?と思った。
11月の「関西GIDネットワーク」の私の講演に来てくださった時には、浮腫みが取れてお顔の色も良くなっていたものの、ずいぶんやつれていて、また驚いた。
肝臓がすっかり駄目になっていた(肝硬変)とのこと。

それにしても、バンコクにいた私のブログが第一報とは・・・。

水木しげる先生が妖怪の国に旅立たれた 93歳 [訃報・追悼]

11月30日(月)

漫画家の水木しげる先生が妖怪の国に旅立たれた。93歳。

『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木漫画は、手塚治虫漫画とともに、少年時代の私の心象風景に大きな影響を与えた。
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↑ 原作品名は「墓場鬼太郎」

また、性社会史の研究を始めてからは、水木先生自らが体験された「慰安所」の実態を描いた作品に大きな衝撃を受けた。
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↑ 『総員玉砕せよ!』
戦争の悲惨さを実体験として語れる方が、また1人減ってしまった。

水木先生、たくさんの作品をありがとうございました(合掌)
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↑ 境港市で(2010年夏)


伝説の大女優、原節子さん逝く、95歳 [訃報・追悼]

11月25日(水)
原節子さんが、映画全盛期の大女優であることは、もちろん存在は知っていたが、最後の映画出演は1962年、私が7歳の時で、さすがに現役のお姿は記憶にない。

大きな目が特徴的なくっきりした顔立ち、大正生まれの日本人女性には珍しい165cmの長身。
初の日独合作映画「新しき土」(1937年)のヒロインに抜擢されたのも肯ける。
原節子.gif
太平洋戦争中は「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)をはじめ、「決戦の大空へ」(1943年)、「勝利の日まで」(1945年)などの戦意高揚映画に数多く出演した。

戦後は「安城家の舞踏会」(1947年)のヒットで原トップ女優としての地位を確立。
さらに「青い山脈」(1949年)で女性教師役を演じ大ヒット。
その後、小津安二郎監督の「晩春」(1949年)、「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)、「東京暮色」(1957年)など6作品に出演し、内面的な深さのある演技で高い評価を得た。
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↑ 「晩春」(1949年)から
原節子(晩春)2.png
↑ 「晩春」の花嫁姿。原節子自身は生涯独身だった。

1963年12月、小津安二郎監督の通夜に姿を見せたのを最後に公の場から姿を消し、鎌倉で隠遁生活に入った。
小津監督に殉じたかのような、あるいは日本映画の斜陽化を予測したような、42歳での早すぎる引退から52年。
あまりにも長い余生だった(合掌)。
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原節子さん死去95歳 伝説の女優「東京物語」「晩春」

戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。

同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。

横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。

山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。

東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。

以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。

「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。

その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。

その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。

『朝日新聞』2015年11月26日02時25分
http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html?iref=comtop_6_01